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北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)は、文禄・慶長の役の際、朝鮮北部の義勇兵が日本側の加藤清正軍などを撃退したことを記念し、咸鏡道北部(現在の北朝鮮)に建立したとされる石碑である。「咸鏡道義兵大捷碑」とも呼ばれる。朝鮮民主主義人民共和国の国宝(:en:National Treasures of North Korea)193号。 == 碑文の内容 == 北関大捷碑には、朝鮮の義勇兵がいかに勇敢に戦ったかが刻まれているが、記載されている戦闘が実際に存在したかどうかについては定かではない。 *万暦の頃に、倭の酋長、秀吉が強大な軍勢を信じて、明を犯すようとしたが、我が国がその侵攻のための道を貸さないと怒り、遂には我が国に入寇し、都(現ソウル)にまで至った。宣祖(朝鮮王)は西に移動し、全ての村々が敵に蹂躪された。賊(日本)は京畿道(ソウル北部)を陥れ、荒々しい敵将2人(小西行長と加藤清正)は軍を二分して、行長は朝廷の後を追って西へ、清正は主に北方侵攻を担った。 *我々は臨溟(現在の北朝鮮金策市臨溟里)に軍を分け、敵を待っていたが、賊(日本)は戦勝に慣れて備えをおろそかにしていた。我が軍が立ち上がって一斉に突撃すると賊(日本)は敗走した。それを追って敵将五人を殺し、無数な敵を斬り、馬と武器を捕獲した。これにより、これまで逃げ隠れていた将兵が加わり、七千人に達した。賊(日本)は吉州城に立て籠もったが、道に伏兵を置き、敵が出てくるやこれを打ち破った。城津(現在の金策市)の賊(日本)が臨溟に攻めてきたので、草むら山間に伏兵を設け、帰るのを待って双方から挟撃し、大いに破り、数百人を斬った。 *南方より盗(日本)が我が国にやって来て、大邦(明)を撃とうとし、わが国は災いを受けた。高く高い北方が野蛮人(日本)の巣窟となり、愚かな民は抵抗することなく従った。だが、血を塗った口で我々を飲み込み、毒を吐く醜い賊(日本)に、義兵たちは勇ましかった。彼ら(義兵)は利益に捕らわれず義を重んじた。彼ら(義兵)が戈と弓を気にすることなく叛徒を殲滅すると、あの賊(日本)が我らに襲い掛る事はもうなかった。義兵が鼓を打つと、山は崩れ、海が沸くようで、我が軍の輝く攻撃に、醜い野蛮人(日本)は、驚きながら崩壊した。賊に神の罰を与える事を、義兵が底から手伝ったのは、私的じゃない忠誠のためであり、そのお蔭で北国(咸鏡道)は平定され、我々は再び蚕を飼い、農地を耕せるようになった。王様は「どれが汝の功績より優れているだろうか」と仰いながら、官職を賜り、功績を讃えた。臨溟の崖に石がそそり立っているが、これに功績を刻み、永遠に顕彰する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北関大捷碑」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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