|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 北 : [きた, ほく] (n) north ・ 北風 : [きたかぜ, ほくふう] (n) north wind ・ 風 : [ふう, かぜ] 1. (adj-na,n,n-suf) method 2. manner 3. way ・ 家 : [いえ, け] 1. (suf) house 2. family
北風家(きたかぜけ)は兵庫県の旧家。伝説によれば古代から続く歴史を持つ。1895年(明治28年)北風正造の逝去によって歴史を閉じた。伝説及び家伝については以下の通り。 ==北風 称姓以前== 第8代 孝元天皇の曾孫である彦也須命(ひこやすのみこと)を初代家祖とする。彦也須命が阿閇氏遠祖の彦屋主田心命(ひこやぬしたこころのみこと)と同一人物かは不明。北風氏系図は複数有り、名前が似ている22代 彦主(ひこぬし:家伝では「ひこのし」)、6代 彦連(ひこむらじ)と初代彦也須命との事跡に混乱が見られる。 第10代 崇神天皇が 桑間宮(くわまのみや)にて治世時、彦也須命は、四道将軍の1人として都を離れている父に代わり、天皇に近侍、浪速の浦の魚網所(現在の玉出か)を監督。古くは、家内重大決定時、神意を問う為に、遠方にある初代の古墳まで当主が出かけていたというが、いつの頃か忘れられ、古墳の所在地は不詳。 6代彦連(7代彦麻呂あるいは彦丸)が神功皇后に従い、新鮮な魚介類を献上すると共に、新羅に出兵、功あり、兵庫の浦一帯の管理を任される。家宝に皇后の鐙が伝わる(御手判もあったが寛政7年焼失、有栖川宮織仁親王の手判に置き換えられた)。その後、 平氏による福原京遷都計画の影響で浜方に移るまで、代々、会下山(えげやま)に居を構えた。 尚、神功皇后が新羅から帰還の折、阿倍野の近くの浜で吉志舞を舞った阿倍氏は大変近しい一族に当たる。 22代彦主の頃、当時まだ新興の藤原氏と婚姻を結び、白藤(しらふじ)氏を名乗る。 *近隣の丹生山田荘(神戸市 北区山田町)には、矢田部郡(八部郡)郡司の山田左衛門尉真勝(さねかつ)が右大臣 藤原豊成の娘で中将姫の妹でもある白瀧姫に身分違いの恋をし、帝の援助を得て、故郷に連れ帰って子孫を成したとの伝説「栗花落の井(つゆのい)伝説:神戸市兵庫区都由乃町にも栗花落の森伝説有り」が有り、真勝は彦主と官職が同じ左衛門尉でもあり、関連が注目される。尚、藤原豊成の時代に衛門府は左右に分かれておらず、左衛門尉という官職はない。幕末の当主北風正造は、現在の神戸市北区山田町小部に唐御殿と呼ばれた別荘を持っており、勤王志士たちとの密談に使用していた。 44代白藤惟村が一門(当時支流だけで21家)を引き連れて南朝後醍醐天皇方に加勢し、1336年北風の強い日、家伝によると、わざわざ敵前を兵庫から東の敏馬(みぬめ)まで船で漕ぎ渡り、敏馬神社に参拝の後、取って返して、兵庫の浦で足利尊氏の軍船の大半を焼いた。尊氏の姿が見えるほど肉薄したが、もう少しのところでその船を取り逃がす。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北風家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|