|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 北 : [きた, ほく] (n) north
北魏(ほくぎ、:、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。 == 歴史 == === 建国期 === 鮮卑の拓跋部では、三国時代の261年、拓跋力微が曹魏に対して朝貢を行っているが、このことが後に国号に魏に定める由来となった。拓跋部はその後五胡十六国時代に代を建てた。代は8主60余年続いたが、376年12月にの時に前秦の苻堅に滅ぼされた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P146〕。この際、拓跋什翼の孫(『宋書』では子)の拓跋珪は母と共に〔、母の出身部の賀蘭部に逃れ、さらに前秦支配下で代国東部を統治していた独孤部の劉庫仁の下に身を寄せた〔三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P147〕。 その前秦が383年10月ので東晋に大敗を喫して弱体化する。384年10月に劉庫仁が死去すると後継者争いが起こり、拓跋珪はまた賀蘭部に逃れたが、前秦崩壊による諸民族自立の波は北方にも波及し、386年1月に賀蘭部の推戴を受けて牛川(現在の内蒙古自治区興和県)で代王に即位して登国と建元し、4月には魏王と改称した〔。これが北魏の建国である〔。しかし建国当初の北魏の支配圏は盛楽(現在の内蒙古自治区和林格爾県)を中心とした限定的な地域だけで、かつての代よりその勢力は弱小な小国に過ぎなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北魏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|