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十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)は、源頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制である。嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の原型とされる。 正治元年(1199年)正月13日に源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家は20日に左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第二代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。頼家は大江広元らの補佐を受けて政務を行うが〔後藤基清の讃岐守護職改替、伊勢神宮領六箇所地頭職の停止など。〕、4月12日に頼家が訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。『吾妻鏡』には頼家が従来の慣例を無視して恣意的判断を行ったという挿話が並べられているが、真偽は不明である。頼家を立てることで政治を主導しようとする頼朝側近(大江広元・中原親能・梶原景時)〔頼朝急逝直後に起こった三左衛門事件では、大江広元や中原親能が中心となって事態の収拾に当たっている。〕に対する他の有力御家人の不満・反発も要因として考えられる〔一方で構成者を見ると、北条は頼朝の姻戚、比企・八田は頼朝の乳母関係者、安達は頼朝の流人時代からの側近、梶原・和田・足立は頼朝の家政機関(侍所・公文所)の職員であり、三浦も義村の代に評定衆を務めている。吏僚も含めて全員が将軍権力を支える頼朝側近であり、地域棟梁格の有力御家人(千葉氏・小山氏・秩父氏)の意向は反映されていないとする見解もある(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)。〕。なお、この合議制導入は頼家独裁の抑制とするのが一般的な解釈であるが、13人全員で合議された例はなく、数名の評議の結果を参考に頼家が最終的判断を下す政治制度であり、頼家の権力を補完する機能を果たしていたとする見解もある(川合康『日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権』吉川弘文館、2009年)。 正治元年(1199年)に梶原景時が失脚、正治2年(1200年)に安達盛長と三浦義澄が病死したことで合議制は解体し、頼家政権も権力抗争の果てに崩壊することになる。 == 構成者一覧 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「十三人の合議制」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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