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十時 梅厓(ととき ばいがい、寛延2年(1749年〔生年は享保17年(1732年)とする説もあるが、正念寺に残る過去帳の記載から寛延2年が正しいと考えられる(橋爪(2000)p.3)。〕) - 享和4年1月23日(1804年3月4日))は、江戸時代中期の南画家、儒学者で、書や篆刻も能くした。儒官として伊勢長島藩に仕えた。大坂生まれ。 姓は十時、名を業のちに賜(しゃく)、字は季長のちに子羽とした。号は梅厓の他に顧亭、清夢軒、天臨閣、通称 半蔵と称した。 == 生涯 == 伊藤東涯の子、東所に経学(主に古学)を学び、大谷永菴、趙陶斎から書法を受ける。池大雅や木村蒹葭堂、皆川淇園と親しく交流し、画法を大雅から受けた。また和歌を小沢蘆庵から学び、上田秋成とは同門の間柄である。文献上の初見は、安永4年(1775年)版『浪華郷友録』で、「儒家」と「書家」の項目に記載ある。ただし、画家の部には名前がなく、儒家や書家としての名声が先行した。 天明4年(1784年)36歳の頃、趙陶斎の紹介を得て伊勢長島藩主 増山雪斎に招かれ藩儒となる。廃れていた藩校省耕館を再興し、松ヶ島に文礼館と先師廟を建立を建議して受け入れられ、学長(祭酒)となった。 寛政2年(1790年)、数ヶ月の暇を得て長崎に遊学する。2月、清の画人 費晴湖や黄定甫に会い、『芥子園画伝』 などについて質問する。また陳養山に書法を受ける。 帰路に近畿に遊び、泉州佐野の豪商 食野青圃に招かれ文雅に耽るうちに帰藩の予定が過ぎてしまう。仕官を辞めるために故意であった。罰を受けて閉門蟄居の身となったが、食野氏が藩財政に融資している有力者であったため、「梅厓を借り受けたい」という要望が通った。梅厓は蟄居が解かれ、食野氏の元で書画や法帖などを臨模して過ごす(『十時梅厓先生傳』)。ただ、蟄居を裏付ける資料は不詳である。寛政10年(1798年)4月8日松ヶ島堤防が決壊しており、その後金子調達の問題で、食家と懇意な梅がを重視したと考えれば、物頭格昇進はこの頃で、蟄居も同じ時期だとも想定される〔橋爪(2000)p.9。〕。 寛政7年(1795年)、名古屋大須で催された蓬瀛書画会(主催:神谷天遊・内田蘭渚)に参加している。 帰藩後、時期は不明だが 寛政12年(1800年)、52歳の時ようやく致仕することが許され、大坂に帰ることができた。ただし、致仕後も子孫は長島藩に仕えており、家中にしこりは残らなかったと考えられる。 晩年は書画会や煎茶会に参加している。享和元年(1801年)、大田南畝と自らの居宅 清夢軒(蔀関月旧宅)で月見をして交流している。この頃、南畝は梅厓の随想録『清夢録』を写し取っている。 享和4年(1804年)1月23日、没。享年56。大阪市天王寺区寺町の正念寺に葬られる。法名は和敬院謙翁梅厓居士。南畝はその死を悼み、遺画に題詩を添えた。明治23年(1890年)に初の本格的伝記『十時梅厓先生傳』(苗村芳橘ほか著)が出版されるが、その翌年芳橘らが菩提寺の正念寺に顕彰碑を建立している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「十時梅がい」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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