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千原 陽三郎(ちはら ようざぶろう、1942年3月30日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。 == 来歴・人物 == 日大三高では1959年の春の甲子園に投手として出場。2回戦(初戦)で松商学園に0-6で完封負け。同年夏は都予選準決勝で、日大二高の井上善夫投手と投げ合うが4-5で惜敗、甲子園には届かなかった。 卒業後は日本大学へ進学。東都大学リーグでは在学中3度優勝。2年上に宮田征典投手がおり、一塁手と投手を兼ねて起用される。1961年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で関大を降し優勝を飾る。3年生からはエースとして活躍、1962年秋季リーグで優勝し最優秀選手に選出される。1963年春季リーグでは優勝を駒大に譲るが、最優秀投手に選ばれた。投手としてリーグ通算46試合に登板し22勝14敗、防御率2.28、152奪三振。打者としても通算83試合に出場し267打数69安打、打率.258、0本塁打、19打点の成績を残した。ベストナインに2回選出されている。 1964年に中日ドラゴンズに投手として入団。翌年から一塁手もこなし、1967年には野手転向。同年は109試合に出場し、打率.280の好成績をあげる。1968年には広野功の移籍に伴いレギュラー一塁手に定着した。同年は初めて規定打席(16位、打率.268)に達し、オールスターゲームファン投票の一塁手部門で、王貞治につぐ次点だったが監督推薦で出場した。その後は外国人選手との併用が続き、段々と出場機会も減って、1972年に現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千原陽三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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