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千家 典子(せんげ のりこ、1988年〈昭和63年〉7月22日 - )は、日本の元皇族で、出雲大社権宮司・千家国麿の妻。結婚前の名と身位は典子女王(のりこじょおう)で、皇室典範における敬称は殿下。高円宮憲仁親王と同妃久子の第二女子。姉に承子女王、妹に絢子女王がいる。お印は蘭(らん)。栄典は宝冠牡丹章(旧勲二等宝冠章に相当)。学位は学士(心理学)。 == 略歴 == 1988年(昭和63年)7月22日に高円宮憲仁親王と同妃久子の第2子(次女)として誕生した〔1988年(昭和63年)7月23日宮内庁告示第4号「憲仁親王妃久子殿下は、愛育病院において御出産、女王が御誕生になつた件」 1988年(昭和63年)7月29日宮内庁告示第5号「御誕生になつた憲仁親王殿下の第二女子は、御名を典子と御命名になつた件」〕。名は憲仁親王が選び、お印は久子妃が選んだ。 松濤幼稚園に通い、学習院初等科、女子中等科を経て、2007年(平成19年)3月に学習院女子高等科を卒業した。同年4月に学習院大学文学部心理学科に入学した。大学では臨床心理学等を学んだ。 2008年(平成20年)7月22日で満20歳となり、宝冠牡丹章を受章した。その後、成年皇族として宮中祭祀や式典にも参列している。 2011年(平成23年)3月20日に学習院大学文学部心理学科を卒業した。 2014年(平成26年)5月27日午前、出雲大社禰宜(当時)の千家国麿との婚約が内定したと宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管が記者会見で発表。同日午後には、宮内庁第一会議室で典子女王及び千家の記者会見が開かれた〔「自然と結婚という話に 高円宮典子さま・千家さん婚約内定」『読売新聞』2014年5月28日東京朝刊1頁参照。ほか、典子女王殿下のご婚約内定について (2014年5月27日)、宮内庁、2014年5月27日閲覧。〕〔「高円宮典子さま婚約内定 会見で喜び語られる」 日本放送協会2014年5月27日 〕。同年7月4日、納采の儀が執り行われた。同年10月2日午前、結婚を前に皇居の宮中三殿にて賢所皇霊殿神殿に謁するの儀(かしこどころこうれいでんしんでんにえっするのぎ)が執り行われ、典子女王は小袿と袴におすべらかしの姿で皇室の先祖と神々に対し結婚と皇籍を離れる旨を報告した。 同年10月5日午前7時半ごろ、前日に出雲市に入った典子女王を、宿泊先へ千家国麿の叔父が使者として迎えに行く入第の儀(じゅだいのぎ)が行われ、続いて11:00ごろより、夫となる千家の所属する出雲大社にて結婚式が行われた。出雲大社参道で、典子女王は黄色地に紅の向鸚鵡丸文と萌黄の植物文を散らした袿に紫色の袴、国麿は黒の衣冠を身に付け、そのあとに両者の親族である黒留袖の久子妃、振袖の承子女王、絢子女王に夫の千家国麿の両親らが続いて歩き拝殿へ向かった。その後、典子女王が赤い小袿と紫色の長袴に着替え、国麿に続いて拝殿内に入った。なお、この儀式にて着用された小袿は典子女王の祖母である崇仁親王妃百合子が貞明皇后から受け継いだもの、長袴は貞明皇后から受け継いだ生地で新たに作られたものと発表されている。儀式は同日正午までに終了した。式後、婚姻届が代理人により出雲市役所大社支所に提出、受理され、皇族の身分を離れ、以後の名は千家典子となった。〔この段落の出典。〕〔この段落の出典。〕 披露宴は同月6日に松江市のホテル一畑で地元関係者向け、8日に東京のホテルで皇太子同妃や三権の長らを招いて行われた。 結婚にあたっては、法に定められた規定により、国から一時金として1億675万円が彼女に支給された〔。結婚後、出雲大社宮司の妻を「姫君様」と呼ぶ習慣に伴い、国麿の妻として大社職員らに「若姫君様」と呼ばれ、祭祀や行事の準備などの指示を学ぶことになる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千家典子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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