|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 千 : [せん ち, ち] 【名詞】 1. thousand 2. many ・ 千歳 : [ちとせ] 【名詞】 1. millennium 2. one thousand years ・ 歳 : [さい] 1. (suf) -years-old ・ 車 : [くるま] 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel ・ 塚 : [つか] 【名詞】 1. mound ・ 古 : [ふる] 【名詞】 1. used 2. secondhand ・ 古墳 : [こふん] 【名詞】 1. ancient (mound) tomb
千歳車塚古墳(ちとせくるまづかこふん)は、京都府亀岡市千歳町千歳車塚にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。 6世紀前半(古墳時代後期前半)の築造と推定され、古墳時代後期としては丹波地方で最大規模の古墳である。 == 概要 == 亀岡盆地東北部、稲築山から伸びる台地の先端部に位置する。これまでに周濠部分に関して数次の発掘調査が実施されている。 墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は現在約82メートルであるが、元は88メートル程度あったと見積もられる。前方部が発達しており、前方部幅が後円部直径を上回るという特徴を有する。墳丘の左くびれ部には造出を持つ可能性が指摘される。また他の外部施設として、墳丘表面には葺石・埴輪が認められている。墳丘周囲には2重の周濠が巡らされ〔亀岡市文化資料館常設展示テーマ解説書。〕、そのうち内濠(盾形周濠)の痕跡は現在にも墳丘周囲の一段低い平地として認められる。これら墳丘と周濠は墳丘主軸線に対して左右非対称で、かつ後述の「片直角型」をなすのが本古墳の最大の特徴になる。主体部となる埋葬施設(内部施設)は未調査で、明らかではない。 この千歳車塚古墳の築造時期は、後円部付近より出土した円筒埴輪から、古墳時代後期の6世紀前半頃と推定される。築造当時としては丹波地方で最大規模で、近畿地方でも屈指の規模になる。律令制下では和銅6年(713年)の分国されるまで丹波国・丹後国は1つの国であったことから、本古墳の被葬者も丹波・丹後地域を統括する勢力を有したと推測される〔『図説 園部の歴史』 園部町、2005年、p. 39。〕。また本古墳は古墳時代中期の伝統的な「片直角型」前方後円墳を採用し、同時期の大王墓で継体大王(継体天皇)真陵とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)のような新しい「剣菱型」前方後円墳とは性格を異にするという特徴を有しており、一説に被葬者は継体大王と同格の皇位継承候補者であった倭彦王(仲哀天皇5世孫)に比定されている。本古墳の築造後は、当地で首長墓は営まれず、本古墳に続く首長墓は口丹波の他の地域に移された。 古墳域は1982年(昭和57年)に国の史跡に指定された〔。現在では毎年2月に野焼きが行われる。なお周辺では、古代の磐座祭祀の面影を残す出雲大神宮(丹波国一宮)や、丹波国分寺跡・国分尼寺跡など律令制下の丹波国の中心施設が位置する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千歳車塚古墳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|