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千田 正(ちだ ただし、1899年4月28日 - 1983年2月5日)は、日本の政治家。 参議院議員3期(1947年 - 1962年)、岩手県知事4期(1963年 - 1979年)を歴任した。 == 生涯 == === 生い立ち === 1899年(明治32年)、岩手県胆沢郡金ケ崎村(現・金ケ崎町)三ケ尻に父・政五郎と母・マサの長男として生まれる。千田家は水沢から三ケ尻に移り住み、北上川の舟運事業を行う地域有数の豪農だった。7歳で父を亡くした千田は、マサと養蚕と雑貨屋を始めた。 1913年(大正2年)、胆沢郡立胆沢農業高等学校(現・岩手県立水沢農業高等学校)に進み、水沢の祖母宅から通った。田んぼの耕し方さえ知らなかった千田は水稲、養蚕などの実習中に先生から「君は農業に向かない」と言われ、同校を中退する。 その後、仙台商業学校(現・仙台市立仙台商業高等学校)に入学した。大学進学も描いていた千田は仙台二中(現・宮城県仙台第二高等学校)にも合格して最初は通っていた。しかし「そろばんを習えば家業に役立つだろう」との母の思いを受け入れ、2ヶ月後に仙台商へ編入。卒業までの5年間、水沢出身者のための学生寮、臥牛寮から通った。通学の服装は着物に上等の靴、ステッキ。南部藩士の流れをくむ家柄であったことからか、千田は寮生から、わこ様(いいところの息子の呼び名)と呼ばれていた。仙台商では、弁論部のリーダーとして活躍し天下国家を論じ、柔道にも挑んだ。また将来外国に渡ろうと女学院の院長の下で週3回レッスンに励んだ。 1920年(大正9年)、早稲田大学商学部に入学。簿記など商業の基礎を仙商で習得済みの千田は柔道やホッケー、ボードなどに打ち込んだ。早大アイスホッケー部を創設させたのは千田である。アイスホッケーは慶應の独壇場だったが、千田が早慶戦を企画し、見事慶應を破った。千田はマネージャーだった。弁論が得意な千田は早大雄弁会にも籍を置いた。当時の弁論仲間には、浅沼稲次郎、三宅正一、平野力三らがいた。大学の講堂の建設資金集めを目的に岩手を遊説したこともあった。郷土に戻れば若者たちを集め話をした。 早大を卒業した翌年の1926年(大正15年)、千田は「世界を舞台に何かを吸収したい」と米国ハイドルバーグ大学に留学。1年後コロンビア大学に留学し経済学を専攻。さらに2年後には英国に渡りケンブリッジ大学に入学するが気風が合わず、1週間後にロンドン大学に入り直している。柔道5段の千田は、マンション管理人のロシア人に柔道を教え、地域では、けんか師と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千田正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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