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千田氏(ちだし)は、良文流房総平氏のうち下総国千田荘を拠点とした一族で、千葉氏の嫡流である。 == 概要 == 治承4年(1180年)石橋山の戦いに敗れた源頼朝が房総に逃れた際、千葉常胤の嫡孫成胤が、千余騎を率いて千葉荘に侵入した千田荘の領家藤原親政(千田親政)をわずか七騎で迎え撃ち生虜にしたことが治承・寿永の乱を制する原動力となった〔下総国千田荘領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜らん。…(『吾妻鏡』治承4年9月14日条)〕。 治承・寿永の乱の後千田荘は八幡荘とともに千葉氏の拠点所領となり、成胤の娘である千田尼から甥の泰胤〔成胤の嫡男である胤綱の次男で、千田次郎と呼ばれ千田氏の祖に当たる。〕、その娘から宗胤へと継承された。そして宗胤が、文永の役の負傷がもとで建治元年(1275年)に肥前国小城郡で没した父頼胤に代わって九州に赴いた間に、千葉氏の家督を弟の胤宗に横領されてしまった。 その後宗胤も九州で没したが、宗胤の子胤貞は折りしも勃発した南北朝の戦いに際して北朝方につき、建武2年(1335年)には千葉氏の家督を賭けて胤宗の子貞胤の本拠千葉荘を攻めた。これに対し貞胤方は胤貞の本拠である千田荘を蹂躙しこの騒乱は下総国中に波及したという〔千田荘の東禅寺住持だった湛睿は、その騒然とした様を「然世上転変之後、三四年以来都鄙不静謐、道俗尚多危」と記している。…(金沢文庫所蔵『華厳五教章纂釈』奥書)〕。南朝方の新田義貞の軍に属した貞胤は、建武3年(1336年)10月に越前国木芽峠で足利尊氏軍の斯波高経に降伏した。だが胤貞は下総への帰途同年11月19日に三河国で病没し、降伏した貞胤は北朝方に寝返って胤宗の子孫が千葉氏宗家を称した。そのため肥前国小城郡に在った宗胤の次男胤泰は九州千葉氏として活路を見出したが、宗家の地位を失った千田氏はその後衰退していった〔領地の肥前国小城郡と千田荘および八幡荘は、胤貞から嫡子であった次男胤平に継承され、さらに三男の胤継に継承されたが、その後肥前国小城郡は宗胤の次男胤泰が継承した。〕。 暦応年間(1338年から1342年)には千田重親(中務小輔)が奥州の葛西氏のもとへ下向し、桃生郡太田城(現在の宮城県石巻市)に住んでいる。この後、室町から戦国期にかけて北上川流域に勢力を拡大した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千田氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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