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六条 有房 (ろくじょう ありふさ)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人。太政大臣久我通光の孫にして、左中将六条通有の子。庶流出身で、父と同様に昇進は難渋したが、後宇多上皇の厚遇を得て内大臣に昇り、六条家を興した。 == 経歴 == 前半生の官歴は定かでないが、恐らく近衛次将などを経ながら、大覚寺統の亀山・後宇多院に近侍していたのであろう。永仁6年(1298年)7月従三位に叙されて公卿に列し、正安元年(1299年)12月正三位に進んだ。同3年(1301年)後二条天皇が践祚して後宇多上皇が院政を始めると、左大弁・造東大寺長官を兼ね〔清華家出身者の弁官兼帯は異例のことで、亀山天皇の近臣久我具房の先例に従った措置と思われる。〕、参議に任じられる。乾元元年(1302年)12月侍従、翌2年(1303年)1月従二位・権中納言に叙任されるも、間もなく辞任。嘉元2年(1304年)5月祖父久我通光の影供を行う〔『続門葉和歌集』〕。同3年(1305年)3月権中納言に還任し、11月院使として鎌倉に下り、朝幕間の交渉に当たった。徳治元年(1306年)12月正二位、同3年(1308年)1月権大納言に叙任されたが、8月天皇が重篤になると辞した。 その後皇統が持明院統に移ったために再び不遇となる。文保2年(1318年)後宇多院政が再開する直前の1月11日には従一位に叙されたが、翌元応元年(1319年)病に倒れ、6月28日「所労危急」のため上首2人(中院通重、花山院師信)を超越して内大臣に任じられた。これは後宇多法皇の詔によって前任一条内経を更迭し、兼宣旨や任大臣節会を行わず、陣儀で口宣を下すという異例の措置であった〔『公卿補任』によれば、元暦元年(1184年)の徳大寺実定還任の先例に従ったものだという。〕。2日後の7月1日法皇自ら見舞いに訪れた際、病床に臥したまま拝謁し、辞職を願い出て出家した。法名は有真または戒浄〔『建内記』永享11年6月16日条。『公卿補任』の「法名有真(有直)」は誤伝ないしは別名か。〕という。薨去したのは明くる2日であった。享年69。 和漢の学才に優れ、儒書を講じて自説を他人に授けた一方、二条為世から二条派の歌学を伝受。『新後撰和歌集』以下の勅撰集に24首、連歌集『莬玖波集』には11句が入集した。一説に京極派の歌論を批判した『野守鏡』『歌苑連署事書』の作者とする。伏見院に酷似する能筆でも知られた〔『正徹物語』〕。庶流出身ゆえか有職故実には暗かったらしい。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「六条有房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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