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千葉 さな子(ちば さなこ、天保9年3月6日(1838年3月31日) - 明治29年(1896年)10月15日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけての女性。北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。北辰一刀流小太刀免許皆伝、長刀師範。学習院女子部舎監。漢字表記では坂本龍馬に与えた長刀目録に佐那と記述され、司馬遼太郎の小説作品でその標記を用いたため、この名称が一般化しているが、千葉家の位牌には佐奈と記されている〔RYOMA VOL.2 龍馬とゆかいな仲間たち ISBN 978-4072717400 主婦の友社刊 〕。初名を乙女〔千葉周作遺稿(慧文社・2004) ISBN 978-4905849711(1942年の千葉栄一郎著作の復刻版)。 〕。 == 生涯 == 天保9年(1838年)、北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女として誕生。兄に千葉重太郎がいる。 北辰一刀流の剣術を学び、特に小太刀に優れ、10代の頃に皆伝の腕前に達したという。また、美貌で知られ、「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と呼ばれたという。宇和島藩8代藩主・伊達宗城が残した記録をまとめた『稿本藍山公記(こうほんらんざんこうき)』〔宇和島伊達文化保存会蔵〕には、安政3年(1856年)に19歳だった佐那が伊達家の姫君の剣術師範として伊達屋敷に通っていたこと、後に9代藩主となる伊達宗徳(当時27歳)と立ち会って勝ったことが記されている。「左那ハ、容色モ、両御殿中、第一ニテ」(佐那は2つの伊達江戸屋敷に出入りする女性の中で一番美人である)という宗城の感想も残っている〔竜馬の婚約者「武芸に優れ美人」 愛媛・宇和島藩の記録 47ニュース2010年4月4日版〕。 のちに坂本龍馬と知り合い、さな子の回想によると安政5年(1858年)頃に婚約したという〔『土佐史談』170号収録「千葉灸治院」〕。龍馬は姉・乙女宛ての手紙で「(佐那は)今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、長刀もできて、力は並の男よりも強く、顔は平井(加尾)よりも少しよい」と評している〔(文久3年8月14日付)原文「(前略)今年廿六歳ニなり候。馬によくのり劔も余程手づよく、長刀も出来、力ハなみ/\の男子よりつよく、(中略)かほかたち平井より少しよし。(後略)」『龍馬の手紙』p95-97〕。父・定吉は結婚のために坂本家の紋付を仕立てたが、龍馬の帰国後は疎遠になった。後に龍馬の死を知らされるとこの片袖を形見とした。 維新後は学習院女子部に舎監として奉職した後、千住で家伝の灸を生業として過ごし、明治29年(1896年)に59歳でこの地で死去した〔千葉さなと千住中組の千葉灸治院 〕。 山梨県の自由民権運動・小田切謙明とは生前から交友があったと考えられており〔村松志考『小田切海洲先生略伝』(1936)〕、さな子は東京谷中で土葬されたが、身寄りがなく無縁仏になるところ、謙明の妻・豊次が哀れみ、小田切家の墓地のある山梨県甲府市朝日5丁目の日蓮宗妙清山清運寺に墓碑が建立されたという。墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。また、司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 夜話』(朝日文庫)では、「謙明の死後、豊次はさな子を甲府の小田切家にひきとり、余生を送らせた」と、彼女が晩年を甲府で暮らしたとする記述がある。 なお、龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごしたと伝えられるが、元鳥取藩士・山口菊次郎と明治7年に結婚したとする明治時代の新聞記事が2010年に発見された〔竜馬の婚約者さなが結婚? 暗殺後、元鳥取藩士と 47ニュース2010年7月3日版 〕。記事では、山口菊次郎とは数年で離縁、その後は独身で過ごしたとされている。宮川禎一京都国立博物館考古室長は「事実だとすれば衝撃的な発見」と述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千葉さな子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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