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千葉 昌雄(ちば まさお、1869年7月31日(明治2年6月23日) - 1945年(昭和20年)7月19日)は、日本組合基督教会の牧師である。旧姓渡瀬。同じく牧師の渡瀬常吉の実弟で、渡瀬主一郎の実兄である。 1869年(明治2年)に渡瀬勝礼の次男として肥後国八代に生まれる。兄渡瀬常吉と共に漢学を学ぶ。1885年(明治18年)に徳富蘇峰の大江義塾に入門する。最初は耶蘇教退治などをしていたが、横井時雄の伝道集会に接して、回心する。 徳富と共に上京する。その後、群馬県の小村で小学校教師をしていた。前橋教会で洗礼を受ける。兄常吉と共に家族全員を説得しに、全員が洗礼を受けた。 徳富蘇峰の指示で、熊本県葦北郡の政治運動に参加して演説をしたために、小学校教師を罷免される。その後、熊本で巡回教師をした。 1890年宣教師の援助で同志社別課神学科に入学した。卒業後、海老名弾正牧師の元で神戸教会の伝道師に准允された。その後、土佐、片地、鶴岡、日向佃島、宮崎の教会を歴任した。1902年に按手礼を受け牧師になる。 1907年には渡瀬家の本家千葉家の姓を継ぎ、千葉に改姓する。海老名弾正の紹介で北九州八幡製鐵所の精神指導嘱託、人事相談課に勤務する。官舎を教会にして、礼拝と日曜学校を開く。1922年八幡製鐵所を退職。 其の後、佃島教会、長崎馬町教会の牧師として活動する。1938年牧師を引退し、京都に移住し神学生の世話と教会の援助活動を行う。晩年、1941年より宮崎に移住し、飫肥教会を3年間牧会し、1945年終戦直前に死去する。 == 参考文献 == *千葉昌邦「千葉昌雄」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千葉昌雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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