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千葉 時胤(ちば ときたね)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。千葉氏第7代当主。『千葉大系図』によれば、千葉成胤の三男とされてきたが、近年になって千葉胤綱(成胤長男)の長男とする見方が有力視されている〔県史『千葉県の歴史 通史編 中世』〕。 == 略歴 == 千葉成胤が没した建保6年(1218年)に生まれる。北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権・北条泰時より偏諱を受けて時胤と名乗る〔得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)、→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤が北条泰時、頼胤が北条時頼、宗胤・胤宗兄弟が北条時宗、胤貞・貞胤が北条貞時、高胤が北条高時から一字を拝領したと考えられる(以上、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)より)。更に、足利氏において通字の「氏」が付かない足利家時について「時」の字が北条氏からの偏諱であることが指摘されており(小谷俊彦 「北条氏の専制政治と足利氏」(田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年)、p.131))、「時」を通字としない千葉氏においては、本項の時胤がそれと同じケースと考えられ、年代的に北条泰時から賜ったものとみられる。但し、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.18)によれば、『千葉系図』(『続群書類従』第六輯下に所収)で時胤の註記に仁治2年に42歳で没したという記載がみられ、その場合生年が正治2年(1200年)となるため、元服が1209-14年の間となり、「時」の字を与えたのは泰時ではなくその父・義時ではないかとしている。以上、千葉氏当主が北条氏と烏帽子親子関係を結んだ旨は、服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」(→PDF版 )に明確に示されている。〕。 安貞2年(1228年)、胤綱の死により、千葉介を継承する。嘉禎元年(1235年)、京都において平経高(『平戸記』著者)邸に「千葉介某の手の者」が乱入した(原因は経高の子経氏と千葉氏家臣の間の女性問題であるという)。この時の千葉介はまだ13歳の時胤であった。翌2年(1236年)に下総国一宮である香取社造営(遷宮)の宣旨を受けている。同4年(1238年)には将軍藤原頼経の上洛があり、時胤も供奉する予定であったが、執権である北条泰時の命令によって香取社の造営が終わっていないことを理由に上洛を止められている〔『香取文書』嘉禎四年(推定)正月二十三日関東御教書写(『鎌倉遺文』7-5203)〕(この命令の背景には上洛によって香取社の造営が遅れることや千葉氏に対する二重の財政負担につながることを幕府側が危惧したとみられ、後に上洛に従った下総国の地頭に対しても時胤の事例を引きながら帰国するように命令〔『香取文書』嘉禎四年三月十五日関東御教書写(『鎌倉遺文』7-5218)〕が出されている)〔上杉和彦「鎌倉将軍上洛とその周辺」(初出:『古代文化』43巻11号(1991年)/所収:上杉『鎌倉幕府統治構造の研究』(校倉書房、2015年) ISBN 978-4-7517-4600-4)〕。その香取社の造営が完了しない仁治2年(1241年)に24歳の若さで没し、子の頼胤が跡を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千葉時胤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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