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千葉 泰胤(ちば やすたね/ 千田 泰胤 ちだ - )は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。父は千葉成胤または胤綱。系譜上の問題については千葉時胤を参照のこと。 == 概略 == 北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第3代執権・北条泰時より偏諱を受けて泰胤と名乗ったものとみられる〔得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏(菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年)もその統制下にあった。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年) および 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)p.163)、→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤が北条泰時、頼胤が北条時頼、宗胤・胤宗兄弟が北条時宗、胤貞・貞胤が北条貞時、高胤が北条高時から1字を拝領したと考えられる(以上、紺戸論文(『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18)より)。以上、千葉氏当主が北条氏と烏帽子親子関係を結んだ旨は、服部英雄 「中世小城の景観・海から考える」(→PDF版 )に明確に示されている。〕。 下総国千田荘を領し「千田」を称し千田氏の祖とされ、また奥州千葉氏の祖ともされる。幼くして千葉氏当主となった甥の頼胤を後見し、娘を頼胤室として領地を継承させた。 頼胤が千葉氏を継いだ当初は、後見人の1人であった同族の千葉秀胤が評定衆に任じられ、頼胤や他の一族を圧倒していたが、宝治合戦で三浦氏に味方した秀胤が滅亡すると、北条氏と縁組を結んでいた泰胤の役割が大きくなった。幼少の当主に代わって後見である泰胤が宝治合戦後の千葉氏武士団の再編成を行い、一族の信仰する神仏の1つに過ぎなかった妙見菩薩を千葉氏宗家および一族の守護神とする「妙見説話」の制作に関わったとする説もある〔『千葉氏と妙見信仰』 P93-96〕。 将軍の外出への供奉や、犬追物の射手などをつとめたことが『吾妻鏡』に記載される。建長2年(1250年)、将軍近習結番に選ばれる。下総に千田荘や八幡荘などの領地を有したほか、肥前国小城郡の地頭職にも任ぜられた。肥前国小城郡の領地は下総の領地とともには娘婿頼胤に継承され、頼胤の嫡男宗胤を介して小城郡のみ宗胤次男の胤泰へと伝えられ、その後の九州千葉氏の根拠地となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「千葉泰胤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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