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千葉県営大原・大多喜間人車軌道 : ミニ英和和英辞書
千葉県営大原・大多喜間人車軌道[ちばけん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せん ち, ち]
 【名詞】 1. thousand 2. many
千葉県 : [ちばけん]
 (n) Chiba prefecture (Kantou area)
: [よう, は]
 【名詞】 1. leaf 
: [けん]
 【名詞】 1. prefecture 
県営 : [けんえい]
 【名詞】 1. prefectural 2. under prefectural management 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [た]
  1. (n,pref) multi- 
: [けん, ま]
 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
人車 : [じんしゃ]
 【名詞】 1. (abbr) rickshaw 2. jinrikisha
: [くるま]
 【名詞】 1. car 2. vehicle 3. wheel 
軌道 : [きどう]
 【名詞】 1. (1) orbit 2. (2) railroad track 

千葉県営大原・大多喜間人車軌道 ( リダイレクト:夷隅軌道 ) : ウィキペディア日本語版
夷隅軌道[いすみきどう]


夷隅軌道(いすみきどう)は、かつて千葉県夷隅郡大原町(現・いすみ市)と大多喜町を結んでいた鉄道路線、およびその経営会社である。開業以降、千葉県営→佐々木保蔵→佐々木保蔵・長島金夫→長島金夫→夷隅軌道と経営名義が変更されているが、それぞれの時代についても本記事で記述する。
なお、千葉県営時代については、千葉県営人車〔『鉄道院年報 大正2年度』など〕、千葉県営大原・大多喜人車軌道線〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』など〕、千葉県営大原大多喜間人車鉄道〔『かつしかブックレット15 帝釈人車鉄道』など〕、千葉県営軌道大多喜線〔白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』など〕などといった様々な名称で呼ばれるが、本記事では『千葉県統計書 大正4年』などに基づき、千葉県営大原大多喜人車軌道と表記する。
== 歴史 ==
1908年(明治41年)に千葉県知事に就任した有吉忠一は、1909年(明治42年)に庁南茂原間人車軌道を開業させたほか、1910年(明治43年)には千葉県営鉄道多古線野田線の建設を計画(開業はともに1911年(明治44年))するなど、県主導での鉄道整備をとなえていた。一方、夷隅郡の郡役所が置かれており、この地方の政治的中心地であった大多喜町には鉄道路線が通っておらず、1899年(明治32年)に房総鉄道(現・外房線)の駅が開業した大原町との間での交通量が増大していた。このことから、1910年に大多喜町視察を行なった有吉は大原・大多喜間の軽便鉄道の敷設に内諾を与える。しかし、同年6月に新知事に就任した告森良は「地形の関係上鉄橋多く多大の工費を要するため、軽便鉄道の敷設は県の財政上到底之を許さず、然れど町民の熱望を考慮し、人車なら敷設せん〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』104-105頁〕」として、計画を人車軌道に切り換える。こうして1912年(大正元年)12月15日、千葉県営大原大多喜人車軌道は開業した。大原-大多喜間の所要時間は約2時間30分、運賃は20銭程度であったと推測されている〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』112頁〕。なお、建設費は県債でまかなっており、これは沿線の住民が引き受けた。起債額は153,000円と記録されている〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』105頁〕。
しかし、開業してみると、営業成績は決して良いものではなかった。たとえば、1914年(大正3年)の輸送人員は27,251人、貨物量は1,963トンであったが、同年に庁南茂原間人車軌道はそれぞれ37,398人、18,210,700(約10,920トン)を記録している〔『千葉県統計書 大正4年』〕。この理由としては、人が普通に歩くよりも遅いほどのスピードであったことや、人車が重くなることを嫌って乗車拒否をする押し夫が一部にいたことなどが指摘されている〔『ちばの鉄道一世紀』260頁〕。このような状態であったため、軌道は初年度から2,782円の欠損を計上し、その後は運賃値上げ(1918年(大正7年)の時点で全線乗車時の運賃は46銭になっていた〔)などの策を講じるも毎年欠損が続いた〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』110頁〕。また、夷隅川に架かる増田橋が豪雨により流出、第一次世界大戦後のインフレによる営業費用の増大などといった事態も発生し、県も軌道の維持を負担に感じるようになってきていた〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』112-113頁〕。
このような中、1919年(大正8年)11月に、東京市本郷区の佐々木保蔵が払い下げを申請。県もこれを認め、軌道譲渡が県会の承認を受けるまでの間は一時的に佐々木へ無料で貸し付けることを決定。こうして、1920年(大正9年)4月1日から佐々木保蔵の個人経営による軌道として運営が始まった〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』113頁〕。
ここに至って、沿線町村からも佐々木に対抗して払い下げの申請が出たが、当時知事であった折原巳一郎はこれを「当局が前々から研究している場合には何等希望を申出でず、いざ一定の人に払い下げようという段階になって出願する始末で、それでは少し遅すぎた態度といわれねばならない」と批判する〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』114頁〕。ただし、同時に「できうるものならこの出願者と共同して仕事がすすめられるなら、さらに結構であろう」と提案〔もしており、これを受けて佐々木は、県営時代の主な荷主であった大原運輸倉庫社長の長島金夫(後に大原町長〔)と合同で特許権譲渡を出願。こうして1921年(大正10年)3月31日、人車軌道は佐々木保蔵・長島金夫に30,000円で譲渡された。なお、同年7月ごろに佐々木は軌道経営から手を引き、10月14日に軌道は長島金夫単独名義に変更となった。さらに同年の11月20日、大原町の金物屋であった土屋弁次郎を社長、長島を取締役として夷隅軌道が創立される。大口株主には大原運輸倉庫の関係者が多く、大原運輸倉庫の子会社といった体であった〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』115頁〕。そして翌1922年(大正11年)2月20日、長島から夷隅軌道へ経営が譲渡された。
夷隅軌道となって手始めに行なわれたことは、動力の変更である。動力に関しては、1919年に佐々木が提出した払い下げ申請書の時点で「将来自働式ニ改造シ」という文言が存在している(なお、これは「蒸気機関車が大いに巾をきかせていた時代に、気動車の有望性を見抜いていた事実は特筆されてよいだろう」と評されている〔白土貞夫「夷隅軌道」〕)など、軌道にとっては長く宿願であった。ともあれ、3月13日に、人力からガソリンへ動力変更申請が行なわれ、9月5日に認可される。このため、9月28日にガソリンカーを購入。人車の運行と並行して試運転を行なった結果、乗客の評判も上々であった〔が、空車時重量(3,200ポンド≒1451kg)が人車(1,000ポンド≒453kg)の約3倍に達した〔佐藤信之『人が汽車を押した頃』118頁〕ことからレール・枕木の交換が必要となったため、実際にガソリンカーの営業運転が行なわれるのは1923年(大正12年)2月21日まで待たなければならなかった。
ガソリンカーの運行が行なわれるようになると、人車時代は2時間半かかっていた大原-大多喜間を1時間で結べるようになる (運賃は63銭)。これに伴い乗客数も、人車時代は毎年30,000人前後で推移していたのが60,000人を超えるほどに増加し、軌道は千葉県営時代からを含めて初めてとなる黒字を計上した。しかし、こうして経営が順調になっていった矢先の1925年(大正14年)に、木更津 - 大多喜 - 大原を結ぶ国鉄木原線の着工が決定する。木原線の工事にあたって夷隅軌道の運行に支障が出ることや、木原線が開通すれば経営が成り立たなくなることが予想されたことから、夷隅軌道経営陣は木原線の工事資材運搬用としての買収を国に申請する。これが受理されたことから、1927年(昭和2年)8月31日限りで全線が廃止され、9月18日に会社も解散した。買収金額は85,000円であった。
その後、1930年(昭和5年)4月1日に木原線大原 - 大多喜間が開通。同区間を35分・25銭で結んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「夷隅軌道」の詳細全文を読む




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