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カールトン 半田(カールトン はんだ、日本名:半田 春夫(はんだ はるお)、1931年4月20日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身のプロ野球選手(内野手)。 == 来歴・人物 == 日系アメリカ人二世としてハワイ準州(Territory of Hawaii)に生まれる。ミド・パシフィック高校時代、投手として全米代表に選出され、ヒューストン大に進学し、その後はマイナーリーグで3年間プレーした。 1958年に来日し、南海ホークスに入団。1959年・1960年と2年連続でオールスターゲームに出場。1959年にはホークスの優勝に貢献した。南海時代の同僚ジョン・サディナと共に、日本プロ野球におけるビールかけの創始者であるとされる。1960年のオールスターゲーム第2戦(後楽園)では、一塁に田宮謙次郎(大毎)を置いて板東英二(中日)からオールスターゲーム史上初のランニング本塁打を記録した(このエピソードについては板東の項目も参照)。 1962年には寺田陽介と長谷川繁雄と共に、井上登との交換トレードで中日ドラゴンズに移籍し、同年現役引退した。中日では当時若手の有望選手だった高木守道に「バックトス」を伝授したといわれている。 1966年に鶴岡一人に呼び戻され南海ホークスのコーチに就任し、1968年には中日ドラゴンズへ移籍し、1969年までコーチをつとめた。その後、1971年から中日コーチ時代の同僚田宮謙次郎監督に請われ、1973年に退団するまで東映フライヤーズのコーチをつとめた。 現在はハワイに在住し、アマチュア野球の指導に携わっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カールトン半田」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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