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南レバノン軍 : ミニ英和和英辞書
南レバノン軍[みなみればのんぐん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
レバノン : [ればのん]
 【名詞】 1. Lebanon 2. (n) Lebanon
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 

南レバノン軍 : ウィキペディア日本語版
南レバノン軍[みなみればのんぐん]

南レバノン軍(South Lebanon Army 又は South Lebanese Army)は、レバノン南部に存在した民兵組織である。略称はSLA
== 概要 ==
1970年代後半、内戦状態のレバノンで、当時レバノン政府軍の将校としてレバノン南部に赴任した少佐が組織した民兵組織が前身である。キリスト教徒であったサアド・ハッダート少佐は、レバノンがシリア軍PLOに侵食される事を良しとせず、民兵組織を立ち上げ敵対勢力と戦っていた。1978年にイスラエル国防軍がPLOの支配地域であるファタハ・ランドを攻撃するためレバノン南部に侵攻した際(リタニ作戦)、ハッダート少佐の組織と協力し、その後ろ盾となって、1979年、ハッダート少佐をリーダーとする自由レバノン軍(Army of Free Lebanon – 略称はAFL)が組織された。自由レバノン軍にはイスラエルから余剰兵器などが供与され、イスラエル国防軍やキリスト教マロン派の民兵組織であるレバノン軍団(LF)と協力しながらPLOやシリア勢力との戦いを続け、1982年のガリラヤの平和作戦時にもイスラエル軍と共闘し、PLOをレバノン南部から放逐する事に成功するが、1984年にハッダート少佐が病死してしまった。イスラエル軍は自由レバノン軍の新たな指導者として准将を送り込み、自由レバノン軍は、南レバノン軍に改名した。
南レバノン軍はその後もレバノン南部で活動を続けていたが、ガリラヤの平和作戦以後、PLOに変わって、イランホメイニ師がレバノンに派遣したイラン革命防衛隊により訓練を受けたヒズボラが勢力を伸ばしており、戦局は彼らにとって決して有利では無かった。2000年に、イスラエルのエフード・バラック首相の政策によってイスラエル軍がレバノン南部から撤退すると、もはや南レバノン軍のみで戦線を維持する事は困難になり、南レバノン軍は解散状態となり、ラハド准将はイスラエルに亡命し、構成員も散り散りになってしまった。ヒズボラや政府軍に投降した者も多かったが、一部の構成員はラハド准将と共にイスラエルに渡り、モサドの指揮下で非正規戦に従事したとも言われる。''少佐が組織した民兵組織が前身である。キリスト教徒であったサアド・ハッダート少佐は、レバノンがシリア軍PLOに侵食される事を良しとせず、民兵組織を立ち上げ敵対勢力と戦っていた。1978年にイスラエル国防軍がPLOの支配地域であるファタハ・ランドを攻撃するためレバノン南部に侵攻した際(リタニ作戦)、ハッダート少佐の組織と協力し、その後ろ盾となって、1979年、ハッダート少佐をリーダーとする自由レバノン軍(Army of Free Lebanon – 略称はAFL)が組織された。自由レバノン軍にはイスラエルから余剰兵器などが供与され、イスラエル国防軍やキリスト教マロン派の民兵組織であるレバノン軍団(LF)と協力しながらPLOやシリア勢力との戦いを続け、1982年のガリラヤの平和作戦時にもイスラエル軍と共闘し、PLOをレバノン南部から放逐する事に成功するが、1984年にハッダート少佐が病死してしまった。イスラエル軍は自由レバノン軍の新たな指導者として准将を送り込み、自由レバノン軍は、南レバノン軍に改名した。
南レバノン軍はその後もレバノン南部で活動を続けていたが、ガリラヤの平和作戦以後、PLOに変わって、イランホメイニ師がレバノンに派遣したイラン革命防衛隊により訓練を受けたヒズボラが勢力を伸ばしており、戦局は彼らにとって決して有利では無かった。2000年に、イスラエルのエフード・バラック首相の政策によってイスラエル軍がレバノン南部から撤退すると、もはや南レバノン軍のみで戦線を維持する事は困難になり、南レバノン軍は解散状態となり、ラハド准将はイスラエルに亡命し、構成員も散り散りになってしまった。ヒズボラや政府軍に投降した者も多かったが、一部の構成員はラハド准将と共にイスラエルに渡り、モサドの指揮下で非正規戦に従事したとも言われる。''准将を送り込み、自由レバノン軍は、南レバノン軍に改名した。
南レバノン軍はその後もレバノン南部で活動を続けていたが、ガリラヤの平和作戦以後、PLOに変わって、イランホメイニ師がレバノンに派遣したイラン革命防衛隊により訓練を受けたヒズボラが勢力を伸ばしており、戦局は彼らにとって決して有利では無かった。2000年に、イスラエルのエフード・バラック首相の政策によってイスラエル軍がレバノン南部から撤退すると、もはや南レバノン軍のみで戦線を維持する事は困難になり、南レバノン軍は解散状態となり、ラハド准将はイスラエルに亡命し、構成員も散り散りになってしまった。ヒズボラや政府軍に投降した者も多かったが、一部の構成員はラハド准将と共にイスラエルに渡り、モサドの指揮下で非正規戦に従事したとも言われる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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