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南九州国人一揆(みなみきゅうしゅうこくじんいっき)とは、南北朝時代の1377年(天授3年/永和3年)に結成された国一揆である。九州探題今川了俊と島津氏久の衝突に際して薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人衆が結成した〔かつては了俊の主導で一揆が結成されたとする見方があったが、近年の研究では国人衆の自主的な動きから一揆が作られたとしている。〕。 == 経過 == === 発端 === 九州の大半を制圧した南朝方の征西府打倒のため、北朝の室町幕府から九州探題として派遣された今川了俊は1371年(建徳2年/応安4年)に中国地方の国人衆を従えて豊前に上陸して翌年に大宰府を陥落させ、征西府の有力武将菊池武光・武政父子の相次ぐ死もあいまって順調に九州の南朝勢力を駆逐していった。 ところが、1375年(天授元年/永和元年)に事態は急変する。肥後水島に陣を進めた了俊は筑前の少弐冬資・豊後の大友親世・大隅の島津氏久への参陣を呼びかけたが、少弐冬資だけは来なかったので島津氏久に促して冬資を水島に招き寄せ、その席上で冬資を暗殺した(水島の変)。面目を潰された島津氏久は征西府に寝返り、大友親世は探題側に留まったものの中立、冬資の弟の少弐頼澄も離反、征西府の菊池武朝らの反撃が重なり、了俊は水島から肥前への撤退を余儀なくされた。翌1376年(天授2年/永和2年)、了俊は長門の大内義弘の援軍を得て挽回、天授3年/永和3年(1377年)1月13日の肥前蜷打の戦いで征西府軍を撃破、菊池武朝を肥後に封じ込めたが、氏久及び甥の島津伊久は離反したままだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南九州国人一揆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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