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南井 克巳(みない かつみ、1953年1月17日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の元騎手で現在は調教師。京都府京都市生まれ、愛知県刈谷市育ち〔4歳時に愛知県に転居しており愛知県出身と記される媒体もある。〕。騎手としての成績は13120戦1527勝。 名が示す通り、巳年の生まれ。元騎手で調教助手の南井大志は長男。 ==来歴== *京都府京都市伏見区で出生。4歳時に転居した愛知県刈谷市の祭り「万燈祭り」で饗される古式競馬に惹かれ、騎手に憧れるようになる。中学校卒業後に隣町(愛知県豊明市)にある中京競馬場の厩舎に通い、工藤嘉見調教師に声を掛けられ、日本中央競馬会馬事公苑の長期騎手課程を受講したのち、1970年に騎手見習いとして入門する〔「優駿」(日本中央競馬会)2007年11月号 〕。 *1971年騎手としてデビューする。 *1973年、ロングライトで皐月賞、東京優駿に騎乗し、3年目で八大競走に初騎乗となる。 *一時期「大舞台」にも恵まれず、勝利数も上積みがないことからスランプに陥り引退も考えたという。 *この状況を見かね、1978年に宇田明彦調教師が声をかけて同厩舎所属となる。この出来事は南井にとって「大変ありがたいことだった」と語っており、「感謝の意を忘れないように」と宇田が亡くなって厩舎が解散になりフリーになっても調教服は以前のまま宇田厩舎の黄色い服を着続け、その服は現在の南井厩舎の調教服である。 *1987年小原伊佐美調教師からタマモクロスの騎乗を依頼される。このことが今後の南井の方向性を位置づける。タマモクロスは1987年の夏までは単なる条件馬にすぎなかったが、秋になると頭角を現し、条件戦をクリア、重賞初挑戦となる鳴尾記念を制し、翌1988年にはスポーツニッポン賞金杯、阪神大賞典、天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)と6連勝を果たす。その後ジャパンカップと有馬記念は2着だったが、連対を外すことはなかった。のちに南井も騎乗するオグリキャップとの死闘は競馬ブームの最中、今まで見向きもされなかった芦毛の馬が脚光を浴びるようになる。 *タマモクロスの騎乗により南井にも有力馬の騎乗依頼が多くなった。なかでも特筆すべきはオグリキャップの全盛期というべき数え5歳秋の年の騎乗である。毎日王冠でのイナリワンとの死闘、天皇賞(秋)でのスーパークリークへの敗北(オグリは敗戦の悔しさのあまり、勝ったスーパークリークを睨み付けたまま動かなかったという)、マイルチャンピオンシップでの、絶望的な位置からの差し切り(南井はその勝負根性に感涙した)、連闘で迎えたジャパンカップでの世界レコードの激走など、「豪腕」・「ファイター」と言われた南井は根性を剥き出しにして走るオグリキャップとは相性が良かった。多数の名手を鞍上に迎えたオグリキャップにとってもベストパートナーと言えた。 *1993年、大久保正陽調教師から「まだダービーとったことないよね?」と言われてナリタブライアンへの騎乗を依頼され(大久保はこの発言を「トップジョッキーに対してそのような失礼なことは言わない」と否定している)、主戦騎手となる。翌1994年、ナリタブライアンは史上5頭目となるクラシック三冠の栄光に輝いた。 *1994年年間GI5勝(ナリタブライアンで三冠競走、有馬記念およびマーベラスクラウンでジャパンカップ。当時の年間GI最多勝記録)の大活躍で、JRA賞特別賞・日本プロスポーツ大賞殊勲賞を受賞した。また、年末の第45回NHK紅白歌合戦に審査員として出演。これはJRA関係者では初めてであり、NARを含めても1971年の第22回で審査員を務めた高橋優子以来2人目となる競馬関係者の出演である。 *1998年には悲運の名馬といわれたサイレンススズカへの代打騎乗で宝塚記念を制し、この馬唯一のGIタイトルをとった。 *1999年に騎手を引退し、調教師となる。引退レースは自らの出発点であった中京競馬場で迎え、当日のメインレース、かつ自身のラストランであった白川郷ステークスでは、リキアイワカタカを1着に持ってきて有終の美を飾った。当日本レースを中継した東海テレビでは、最後の直線で実況アナウンサーである吉村功が「ここでは他の馬には失礼して」と断ってから、カメラを鞍上の南井の姿をクローズアップにして実況を行った。 *GIを勝つまでにデビューから17年かかり、にもかかわらず1988年以降頻繁にGIを勝つようになったことについて問われた南井は、次のように答えた。 *2000年に工藤嘉見厩舎を引き継ぎ、ウイングアローで第1回ジャパンカップダートを制す。騎手としてGIを制覇するまでは18年もの歳月を要したが、調教師としては1年目からGIを制した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南井克巳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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