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北碑南帖論(ほくひなんじょうろん)は、清代の考証学者・阮元が唱えた、南北朝時代の書についての総合的な書論。北朝の碑を指す「北碑」、南朝の法帖を指す「南帖」の語の由来となり、その後の清の書道界の方向性を決めた重要な書論である。 この論は実際には当初「南北書派論」の名で述べられ、「北碑南帖論」として詳述された二本立ての論であるが、一般的には「北碑南帖論」の方で呼ばれる。 == 背景 == 中国では芸術としての「書道」の成立が紙の発明・普及と同時期であったこともあり、長いこと紙による書蹟が尊ばれて来た。これらの書蹟は模刻などの手段によって模写されて法帖にされ、長く後世までその姿を伝えて来ていたのである。 しかしこの傾向に、考証学は真っ向から異論を唱えた。模刻による模写は書蹟を写してさらに彫るという二重作業で誤りが起こりやすい上、北宋代以降一般的になるにつれて乱発され、段々書蹟の姿が不正確なものとなっていた。「実証的な分析」を旨とする考証学にとって、このような伝承態度は批判と不信を招くに充分であった。 さらに18世紀の中頃より、かつて南北朝時代に北魏などの北朝の王朝が治めた地から、碑が続々と出土し、また偶然に発見された。その書風は王羲之の「王法」や顔真卿の「顔法」とも異なるものであった。 考証学者・阮元はこれら北朝の碑に初めて注目し、また現地に出かけて現物を実見するなどして、南北朝時代の書について史上初めて総合的な書論をものした。これが「南北書派論」「北碑南帖論」である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北碑南帖論」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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