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南原 宏治(なんばら こうじ、1927年6月7日 - 2001年12月20日)は、日本の俳優。本名は伍井 卯和二(いつい うわじ〔『シネマ個性派ランド』、キネマ旬報社・編、1981年、196-199頁〕、旧姓は則竹)。神奈川県横浜市出身。最後の所属事務所はアクターズプロモーション。 元妻は宝塚歌劇団出身で女優の上月左知子。長女は宝塚歌劇団・元月組副組長の嘉月絵理、長男は俳優の南原健朗、次男は元俳優の山口正朗。 ==来歴・人物== 父親は刑務所長で横浜刑務所の官舎で生まれ、東京都八王子市などで育った後、学徒動員で中国に渡り天津で終戦〔。戦後は東京農業教育専門学校を経て東京大学農学部中退〔。様々な職に就いた後、1951年にスポーツニッポン新聞社主催の「ミスターニッポンコンテスト」で準ミスターニッポンに選出されたのをきっかけに、第6期ニューフェイスとして大映入り〔。一般公募により、船上 爽(ふながみ そう)の芸名でデビューした。 大映では『雨月物語』始め数本の作品に端役で出演したのみに留まり、本格的なデビューは東映移籍後の1954年、東映ニューフェイスの1期生としてで、同期には中原ひとみ、山本麟一、高田敏江らがいる。同年より南原 伸二(なんばら しんじ)の芸名で主演作含めほとんどの作品でメインの役どころで出演を続け、順風満帆であった。1957年に独立映画の『異母兄弟』に出演したことが原因で五社協定に触れ東映を離れ、松竹と本数契約を結ぶとともに有馬稲子の推薦で文芸プロダクションにんじんくらぶに所属する。1960年、芸名を南原 宏治に改める。1965年のにんじんくらぶ解散後は、現代演劇協会・劇団欅を経てフリーとなる。 フリー以降も各社の映画やテレビドラマにて、主に個性的な悪役として活躍した。政界のフィクサーや暴力団の大ボスなど重厚な巨悪を演じる一方、映画『修羅雪姫 怨み恋歌』における聾唖の殺し屋“蜍”、テレビ時代劇『風』の怪剣士“野ざらし主膳”など、常軌を逸した狂気的な敵役としても数多く出演。アクの強い特異な個性で強烈な存在感を見せた。 1980年には劇団「天地劇」を創設。演出家として『瞼の母』『嵐が丘』などの舞台を手掛け、後進の育成・指導にも尽力した。 1987年、幸福の科学の会員となり、俳優業を続けながらその後、本部職員・講師を務めた。1989年には本部講師に昇格、1990年からは伝道部長として同教団の勧誘活動における旗振り役を続ける。教団総裁の大川隆法が製作・総指揮した東映の映画『ノストラダムス戦慄の啓示』にも出演している。 2001年12月20日、東京都調布市の病院にて心不全で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南原宏治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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