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南原 繁(なんばら しげる、1889年〈明治22年〉9月5日 - 1974年〈昭和49年〉5月19日)は、日本の政治学者。東京帝国大学の総長を務めた。東京大学名誉教授。 == 略年譜 == * 1889年(明治22年) :9月5日 - 香川県大内郡南野村(現在の東かがわ市南野)に婿養子の父・三好貞吉、母・南原きくの次男として生まれる。南原家は母・きくの何代か前の甚左衛門が同村南野小井楠家から分家、屋号岸野屋と称し製糖業を営む。祖父・松蔵は組頭役を務めたが、母・きくの幼時にいたり家運傾き和裁の師匠をして生計を立てる。明治の初めまで姓を楠と称したが本家とともに南原(訓はみなみはら。のち、なんばらとなる)と改め、婿養子を迎えた。しかし、繁の幼少時に最初の婿養子であった実父が出奔、母は2歳の繁を戸主として届け出る。 * 1895年(明治28年) : - 広瀬藤太郎、養父としてきくと結婚。 * 1901年(明治34年) :4月 - 香川県大川郡教員養成所に入所。 * 1907年(明治40年) :3月 - 香川県立大川中学(現・香川県立三本松高等学校)卒業。 * 1910年(明治43年) :6月 - 第一高等学校卒業。 :7月 - 東京帝国大学法学部政治学科に入学する。入学後、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者であった。一高に入学したときの校長は新渡戸稲造であり、影響を受けた。 * 1914年(大正3年) :7月 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業後内務省入省。 * 1917年(大正6年) :3月 - 富山県射水郡郡長に任ぜられる。 * 1919年(大正8年) :1月 - 内務省警保局事務官に任じられる。労働組合法の草案作成などを手がける。 * 1921年(大正10年) :5月 - 内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任。内務省時代、アテネ・フランセでフランス語を学んでいた。ヨーロッパ留学を経て、小野塚喜平次の後任として、政治学史を担当。 * 1925年(大正14年) :8月 - 教授となり、政治学史を担当。西欧の政治哲学とキリスト教をバックボーンに共同体論を深め、その研究は、1942年(昭和17年)『国家と宗教――ヨーロッパ精神史の研究』(岩波書店、1942年)、『フィヒテの政治哲学』(1959年、岩波書店)に結実する。福田歓一(政治学史)、丸山眞男(日本政治思想史)は彼の教え子である。 * 1945年(昭和20年) :3月 - 東京帝国大学法学部長に就任。高木八尺、田中耕太郎、末延三次、我妻栄、岡義武、鈴木竹雄とともに終戦工作に携わるが失敗に終わり、敗戦を迎える。 :12月 - 東京帝国大学総長に就任。 * 1946年(昭和21年) :2月11日 - 紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。 :3月 - 貴族院議員に勅撰( - 1947年5月)。単独講和を主張した当時の内閣総理大臣・吉田茂に対し全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、南原は吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。 :12月 - 貴族院において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張。これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。 * 1950年(昭和25年) :3月 - 退官。その後学士会理事長、日本学士院院長などを歴任。アララギ派の歌人としても知られ、歌集『形相』がある。 * 1974年(昭和49年) :5月19日 - 死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南原繁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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