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真宗大谷派難波別院(しんしゅうおおたにはなんばべついん)は、大阪府大阪市中央区久太郎町4丁目にある真宗大谷派の寺院である。通称は「南御堂」(みなみみどう)。本尊は阿弥陀如来。同派の大阪教区教務所、教化センター会館を併設する。 別院名の難波は摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。市街化されて船場となった後も、明治5年(1872年)まで当院南に位置する難波神社にかけて上難波町という町名となり、以降、大正3年(1914年)まで当院南西部を含む北部が上難波北之町となった。また、東側の御堂筋は、南御堂と北御堂(浄土真宗本願寺派の本願寺津村別院)を繋ぐ道であることに由来する。 == 概要 == 文禄4年(1595年)、秀吉より寺地を寄進され、東本願寺十二代 教如〔東本願寺十二代 教如…正式には、「本願寺第十二代」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第十二代」と表記する。〕が「大坂渡辺の地〔大坂渡辺の地…現在の大阪市北区の天満橋と天神橋の中間地点付近の大川のほとり付近。〕」に大谷本願寺を開創する。 文禄5年(1596年)、「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘を鋳造(現存)。 慶長3年(1598年)、大坂城の城下町の拡大により、大谷本願寺が現在地への移転を秀吉より命じられる。 慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から京都烏丸六条に寺地を寄進され、東本願寺〔東本願寺…東西分立後も昭和62年(1987年)12月に「真宗本廟」と改名されるまでは、正式名称は「本願寺」である。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺」と表記する。〕が分立し寺基を移すまで、当寺は、教如を十二代法主とする本願寺教団(現在の真宗大谷派)の実質上の本山であった。 京都に東本願寺が建立後は、大坂の大谷本願寺の地を「難波御堂」とし、大坂における教如の本願寺教団の拠点寺院として、商人をはじめとする同地の門徒の篤い崇敬を集めるとともに、「南御堂」、「難波の御堂」と称されて、広く人々に親しまれ現在に至っている。 正徳4年(1714年)、幕府から旧大坂城の外堀の石垣の寄進を得て、淀川の砂を用いて大規模な地盛りをし、二重屋根の壮大な本堂を建立する。 昭和20年(1945年)3月、大阪大空襲により焼失する。 昭和33年(1958年)、焼失した本堂の再建と山門を兼ねた「御堂会館」の建設が決まる。 昭和34年(1959年)、「復興起工式」を執行する。 昭和36年(1961年)、鉄筋コンクリート製の本堂と「御堂会館」が完成する。落慶法要を厳修する。本堂は、規模は縮小したものの、建築様式に往時の姿を留めている。「御堂会館」は、ビジネス・文化活動等の会場として広く一般の利用にも供されている。 昭和38年(1963年)、「教如三百五十回御忌法要」を厳修する。 昭和39年(1964年)、本堂地下に御堂会館・研修ホールが完成する。 昭和44年(1969年)、御堂会館・南館を増築する。 平成10年(1998年)、「蓮如上人五百回御遠忌法要」を厳修する。 平成27年(2015年)末を以って御堂会館の使用を休止予定。耐震性に問題があり、収益性のある事業に向かないことが理由。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「真宗大谷派難波別院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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