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南昌蜂起(なんしょうほうき、南昌起義、南昌暴動)は、1927年8月1日に中国共産党が江西省南昌で起こした武装蜂起である。市内に司令部を設置して中国国民党革命委員会の看板を掲げた。中華人民共和国では南昌蜂起を記念して8月1日を建軍紀念日としている。〔習近平総書記が建軍記念日を前に第16集団軍を視察 人民網日本語版 2015年07月20日〕〔中国の祝祭日・記念日 みずほ銀行中国営業推進部 2014年12月作成 2015年5月追加〕 日本語版では共産党、国民党のどちらの立場にも立たず、政治的な名称を控え中立的な南昌蜂起を用いる。 == 経緯 == 4月12日の上海クーデターの後、1927年5月に蒋介石は中国国民党からの共産党分離を決定し、汪兆銘が主にその実行部隊であった。 これに対して共産党は独自の軍事力を持たず、いずれかの地で国民党内部の武力を一部接収する形で武装化を進めようとしていた。このころ、国民党内部にはかなり多くの共産党人士が存在しており、要職についているものも多かった(国共合作を参照のこと)。 南京、上海をはじめ、各地で国民党員が共産党員の粛清を行った。武漢では、ロイが6月5日、汪兆銘にスターリンの密電〔コミンテルンの名義で、武漢のボロディンとロイへの密電。 1. 土地の没収は国民政府の命令による必要はない。下層階級に直接没収させよ。 2. 国民党中央委員のなかの旧分子を追放し、新しい農工分子に代わらせよ。 3. 国民党の現在の構造を変えなくてはならない。 4. これまでの軍を改称し、2万人の共産党員と湖北・湖南両省から選んだ5万人の労農分子を武装させて、新しい軍隊を組織せよ。 5. 知名な国民党員によって革命法廷を組織させ、反動派を裁判にかけよ。〕を見せると、汪兆銘は国民党主導を訴えたが、すぐには粛清のための実際行動を起さなかった。再びコミンテルンから、共産党員は国民政府から示威退出し、国民党籍のまま農村革命を推進せよという旨の緊急訓令が届き、7月13日、農政部長譚平山らの共産党員はすべて、武漢政府から脱退し、汪兆銘を罵倒する対時局宣言をひそかに発した。ようやく7月26日になって、武漢政府は全機関から共産党員を排除することを正式に発表し、ボロディンは追放され、第一次国共合作は完全に終了した〔蒋介石秘録7〕。 このような中、当時北伐軍の駐留する都市の中で南昌が比較的手薄な配備であった。また、南昌の公安局長は朱徳が務めており、条件は整っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南昌蜂起」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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