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南條 文雄(なんじょう ぶんゆう、嘉永2年5月12日(1849年7月1日) - 昭和2年(1927年)11月9日)は、日本の明治・大正期に活躍した仏教学者・宗教家。南条文雄とも表記されるが、南條が正しい。字は碩果、松坡。 近代以前からの伝統的な仏教研究の上に、西洋近代の実証的・客観的な学問体系と方法論を初めて導入した。早い時期から仏典の原典であるサンスクリット(梵語)テキストの存在に注目。主要な漢訳経典との対校を行なうとともに、それらの成果をヨーロッパの学界に広く紹介するなど、近代的な仏教研究の基礎形成に大きな役割を果たした。 == 経歴 == 美濃国大垣船町(現・岐阜県大垣市)の誓運寺(真宗大谷派)に生まれる。幼名は格丸、または格順。幼時より漢学・仏典の才に優れる。1866年、大垣藩の僧兵隊に参加。1868年、京都東本願寺の高倉学寮に入り翌年帰郷。1871年、高倉学寮で教鞭を取っていた福井県憶念寺南条神興の養子となり南条姓に改姓、再び学寮に赴き護法場でキリスト教など仏教以外の諸学を修めた。 1876年、同僚の笠原研寿とともに サンスクリット(梵語)研究のため渡英、オックスフォード大学のマックス・ミューラーのもとでヨーロッパにおける近代的な仏教研究の手法を学び、漢訳仏典の英訳、梵語仏典と漢訳仏典の対校等に従事した。特に1883年にイギリスで出版された英訳『大明三蔵聖教目録』(Chinese Translation of Buddhist Tripitaka, the sacred canon of the Buddhist in China)は「Nanjo-Catalog」と称され、現在なお仏教学者・サンスクリット学者・東洋学者に珍重される。翌年、オックスフォード大学よりマスター・オブ・アーツの称号を授与され、帰国。 1885年より東京帝国大学文科大学で梵語学の嘱託講師となり、1887年にインド・中国の仏教遺跡を探訪。1889年には文部省より日本第1号の文学博士の称号を授与された。1906年、帝国学士院会員となる。 1901年、東本願寺が真宗大学(現、大谷大学)を京都から東京巣鴨に移転開設すると、同大学の教授に就任。初代学監清沢満之と協力して、関連諸学との緊密な連繋の上に立つ近代的な仏教研究・教育機関の創設に力を注いだ。 1903年、清沢満之の後を受けて真宗大学第2代学監に就任(~1911年)、その後も京都に戻った同大学(のちに真宗大谷大学、大谷大学と改称)の学長を1914年 - 1923年にわたって務め、学長在任は通算18年近くに及んだ。この間、所属する真宗大谷派において学事体制の整備に尽瘁しつつ、仏教学・東洋学の学界において近代的な仏教研究の必要性を説き、その教育・普及に勉めた。また各地・各方面において行なった活発な講話や執筆活動は、いずれも深い学識と信仰に裏打ちされ、多くの人を惹きつけた。 南条と笠原の伝記が、前嶋信次『インド学の曙』世界聖典刊行協会の前半にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南条文雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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