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南涼(なんりょう、397年 - 414年)は五胡十六国時代に鮮卑禿髪部の禿髪烏孤によって建てられた国。南涼の禿髪氏は拓跋氏から派出したため、この国は拓跋涼国とも称される。 == 南涼の概略 == === 部族時代 === 3世紀初め、鮮卑拓跋部の一酋長であった匹孤は部民を率いて拓跋部から離脱し、陰山一帯から遠く西方の甘粛河西方面へ移り、漢や羌と雑居した。このため禿髪部(寿闐の時に禿髪氏へ改姓)は通常河西鮮卑と称される。256年から263年にかけて魏の鎮西将軍・都督隴右諸軍事であった鄧艾は、蜀に対抗するため非漢族を大量に魏の領内へ引き入れ、河西鮮卑もこの時に雍州・涼州境界(のちの秦州の地)に居住した。 267年、西晋が土地法の改革(占田・課田制)を行うと西北地域の非漢族は反発し、270年、禿髪部の族長であった樹機能は秦州一帯の非漢族を糾合して反乱を起こした(禿髪樹機能の乱。270年-279年)。当時の秦州刺史は胡烈であり、かつて鍾会に従って蜀を伐った猛将であったが、270年6月、禿髪樹機能は万斛堆の戦いでこれを敗死させた。樹機能は同年に安西将軍石鑒を、271年には涼州刺史・牽弘を撃破し、司馬亮・杜預・賈充らの討伐軍を恐懼させた。樹機能の反乱は雍・秦・涼三州に拡大し、皇帝・司馬炎をしてこれを呉・蜀の害より甚だしいと歎かせしめた。 275年と277年、司馬炎は文鴦(魏の文欽の子)を派遣して樹機能を破り、ようやくこれを降伏させた。ところが278年、禿髪樹機能の党の若羅抜能が涼州で反乱を起こすと、早くも樹機能はこれに呼応し再び涼州一帯を占拠した。279年、西晋は呉討滅へ主力を傾ける一方、馬隆を派遣して樹機能を討たせた。樹機能の兵は全軍鉄甲で武装していたため、馬隆は狭隘の地に磁石を積んで動きを鈍らせ、これを大破したという。同年12月、樹機能は部下の没骨能に殺害され、10年に及ぶ西北の大乱は鎮定された。 樹機能が滅ぼされると禿髪部の勢力は著しく衰微し、涼州の広武郡(甘粛省武威市の東南)付近に遊牧して西晋・前涼・前秦に服属した。383年、前秦が淝水で大敗して華北が動乱状態になると、禿髪部は急速に昔日の勢力を回復させた。386年、旧前涼最後の君主張天錫の子の張大豫(涼。386年)は、後涼呂光の涼州進出に伴う混乱に乗じ、前涼再興を掲げて挙兵した。禿髪部族長の禿髪思復鞬は、これを好機として張大豫を支援し、後涼から魏安郡・昌松郡を占領した。しかし、思復鞬は続く姑臧の攻略に失敗して部衆の大半を失うと、張大豫の敗死もあって同年、失意の内に死去した。 思復鞬の死後、禿髪部の部衆を率いたのが子の禿髪烏孤である。烏孤は後涼に服属して部衆をよくまとめ、394年には呂光から仮節・冠軍大将軍・河西鮮卑大都統に拝され、広武県侯に封じられた。395年、烏孤は広武から青海の湟水流域へ攻め込んで鮮卑乙弗部・折掘部を服属させ、この地の廉川堡に拠点を移した。396年、呂光が大涼天王に即位すると、烏孤はこれに反発して後涼の官爵を受けず、自立の動きを強めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南涼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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