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南淵 弘貞(みなぶち の ひろさだ、宝亀7年(776年) - 天長10年9月19日(833年11月4日))は、平安時代前期の公卿。氏姓は息長真人のち槻本公、坂田朝臣、南淵朝臣。従四位下・坂田奈弖麻呂の次男。母は槻本老の娘。官位は従三位・参議。 == 経歴 == 若くして大学寮で学び諸子百家を渉猟し、才能を認められ若くして文章生に推挙される。大同元年(806年)少内記次いで少外記に任ぜられる。 嵯峨朝に入り、弘仁元年(810年)大内記に任ぜられ、美作掾・式部丞・蔵人を経て、弘仁7年(816年)従五位下・但馬国司介に叙任。その後地方官等を務めたのち、弘仁12年(821年)皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)の東宮学士となり右少弁を兼ねる。弘仁13年(822年)従五位上・左少弁に昇進する。 弘仁14年(823年)4月の淳和天皇即位に伴い正五位下・式部少輔に叙任され、9月に左近衛少将を兼ねる。さらに同年12月には弟・永河とともに坂田朝臣から南淵朝臣姓に改姓している。さらに、翌天長元年(824年)従四位下・式部大輔、天長2年(825年)には参議に任ぜられるなど、淳和朝に入ると俄に昇進を果たした。のち議政官として式部大輔・宮内卿・刑部卿・右兵衛督を兼帯する一方、天長6年(829年)従四位上、天長7年(830年)正四位下、天長8年(831年)従三位と順調に昇進を続けた。なお、淳和朝では『経国集』の編纂や『令義解』の撰集に参画している。 淳和天皇の退位から約半年後の天長10年(833年)9月19日卒去。享年57。最終官位は参議刑部卿従三位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南淵弘貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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