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南稚内駅(みなみわっかないえき)は、北海道稚内市大黒1丁目にある、北海道旅客鉄道(JR北海道)宗谷本線の駅。駅番号はW79。 第二次世界大戦後から天北線が廃止されるまでの間は日本最北の乗換駅〔列車の乗り換えではなく、路線の乗り換えとして。現在は、網走駅(石北本線・釧網本線)が該当。〕でもあった。特急「スーパー宗谷」・「サロベツ」が停車する。 == 歴史 == 南稚内駅は、当初は旭川駅から北上してきた宗谷線の終点として、稚内駅という名前で1922年(大正11年)11月1日に開業した〔『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻20号 宗谷本線/留萌本線 14頁〕。当初の宗谷線は、後に天北線となる浜頓別経由の路線で建設された。この駅は現在の南稚内駅がある場所からは約1 kmほど北に所在しており、現在の稚内港郵便局のあるあたりであった。稚内港郵便局の向かいにある「ホテル滝川」は、この駅開業以前から現在地で営業しており、駅がある頃は「滝川旅館」として駅前旅館の機能を持っていた。駅は頭端式で建設されており、駅構内には機関庫や客車の留置設備なども設けられていた。 翌1923年(大正12年)5月1日に、当時日本領であった樺太と結ぶ稚泊連絡船が開設された〔。こうして稚内駅は樺太と連絡するための重要な拠点となり、当時数少ない北海道内の急行列車は函館から稚内まで直通するようになった。高官の乗車などを考慮して、一等車も連結されていた。ただし稚泊連絡船の発着する場所までは駅から2 kmほど離れており、その間を旅客は徒歩、貨物は荷車で連絡しなければならなかった。埠頭には待合所が建設され、後にこの施設が稚内港駅へと発展することになった。なお、開設された1923年の8月、宮沢賢治が当時樺太にあった王子製紙の工場に教え子の就職を斡旋するためにこの駅を利用している。 1924年(大正13年)6月25日に、天塩北線の兜沼 - 稚内間が開業した〔。さらに延長工事が進められて、1926年(大正15年)9月25日に幌延経由の現在の宗谷本線が開通した〔『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』 通巻20号 宗谷本線/留萌本線 15頁〕。これにより稚内駅は双方からのルートが合流する地点となった。そのまましばらくは浜頓別経由の線が宗谷線であったが、幌延経由の線の方が距離が短く勾配も少ないことから、1930年(昭和5年)4月1日付で線名が変更され、幌延経由が宗谷本線、浜頓別経由が北見線となった〔。 1928年(昭和3年)12月26日には、当駅から稚内港駅まで延伸された〔。この際には頭端駅であったためにそのまま延伸することができず、駅の手前のところから分岐させる形で稚内港まで延長された。このためにスイッチバック構造となり、稚内駅に到着した列車は一旦本線上まで退行し、進路を変更して前進していくことになった。稚内 - 稚内港間は1.5 マイルと設定されていたが、1930年(昭和5年)4月1日のメートル法移行時に、単純にkmに換算した2.4 kmにするのではなく1.2 kmとした。これは移転などによるものではなく、当初設定のマイルを修正したものであると考えられている。 1939年(昭和14年)2月1日に、南稚内駅へ改称し、従来の稚内港駅が稚内駅となった〔。 1928年の線路延長以後、スイッチバック形式での運転が続けられてきたが、その手間を解消するためと、稚内駅との距離が近すぎるということから、稚内市の都市計画との関係もあり、現在地点へ移転することになった。これにより1952年(昭和27年)11月6日付けで現在地に移転し、スイッチバックは解消された。このときに、南側の駅との間は営業キロが1 km短縮されたが、稚内駅との間は1.5 km増加している。これは実キロよりも長くなっており、廃止されたスイッチバックの往復分を誤って加算したのではないかとの推測があるが、現時点でも稚内までの営業キロは2.7 kmのままである。移転後の駅舎は当初はバラック建ての建物であったが、翌年に木造モルタル造りの駅舎が完成している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南稚内駅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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