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沈 南蘋(しん なんびん、康熙21年(1682年) - ?)は、中国清代の画家。長崎に2年間弱滞在し写生的な花鳥画の技法を伝えた。弟子の熊代熊斐らが南蘋派を形成。円山応挙、伊藤若冲など江戸中期の画家に多大な影響を及ぼした。 名は銓。字を衡之または衡斎。南蘋は号。中国本国では沈銓として知られる。浙江省湖州市徳清県の人。 == 略歴 == 沈南蘋は胡湄に就いて画を学び、彩色花鳥画や人物画を得意とした。絹織物商だった南蘋の父は、息子を連れて胡湄の家に行くたびに、彼の描く様子を傍らで見続け立ち去らない南蘋の姿を見て、胡湄に入門させたと「當湖歴代画人伝」は伝えている。 宮廷画家として清朝に使えていたが、徳川吉宗の施策により徳川幕府から招聘を受け、享保16年(1731年)12月長崎に弟子の高鈞と高乾を伴い来日、1733年9月に帰国するまで唐館内に滞在する。吉宗は絵画を好み、特に室町時代から伝統的に武家に愛好された宋・元時代の絵を欲した。そこで中国でこうした名画やその正確な粉本を入手してくるよう命じたが、宋元時代の名画は中国でも秘蔵され入手が極めて困難だったため、今度は中国画人を呼び寄せて宋元画に近い絵を描かせようと考えた。清朝側が南蘋を選んだ理由は、幕府の役人が来舶清人から南蘋の名を聴き招いたという説が有力だが、当時の文人画が主流の中国のなかで、宋代画院以来の鉤勒描法に没骨法を加味した保守的な画風の南蘋が最も宋的な画人と見做されたためだと考えられる。 中国の画論書が「設色妍麗」と評する精緻で華麗な彩色画は、たちまち評判となった。南蘋の直弟子は唐通事の熊代熊斐だけだったが、熊斐を通じてその技法を学んだ者が南蘋派を形成し、江戸中期の日本画壇に大きな影響を及ぼした。南蘋帰国後もその人気は衰えず、度々輸入された。吉宗も南蘋の濃彩画を気に入ったらしく、沈銓帰国後に南蘋画を輸入させた際、薄色や墨の画を差し戻したという逸話が残る。南蘋が死亡した年は不明だが、作品の款記により1760年までは存命したことは分かっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沈南蘋」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shen Quan 」があります。 スポンサード リンク
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