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南部の失われた大義(なんぶのうしなわれたたいぎ、英:Lost Cause of the Confederacy)は、南北戦争(1861年-1865年)で南部(アメリカ連合国)が敗れたという事実をその伝統的白人社会に受け入れさせようとした文学者や知識人の運動に通常与えられる名前である〔Gallagher (2000) p. 1. Gallagher wrote:失われた大義を考案した者達は様々な動機から行動した。彼等は集団で彼等自身の行動を正当化しようとし、自分達や他の元南軍関係者に全体としては失敗であったものの中で肯定的なものを見付けられるようにした。また彼等は南部白人社会の子供達や次の世代に、戦争について「正しく」語り継ぐことを望んだ。〕。この運動に貢献した者達は、南部の大義を高貴なものとして描く傾向があり、アメリカ連合国指導者の大半は時代遅れの騎士道の典型的なものとし、北軍に敗れたのは北軍の軍事的技術が優れていたからではなく、圧倒的な勢力によるものだったと描く傾向にあった。さらに彼等はレコンストラクションを非難する傾向にもあった。 == 歴史 == 南部の白人の多くは、1865年の敗戦によって、3通り、すなわち経済的、感情的および心理的に打撃を受けた。南部白人はその敗北を自分達の力の及ばない要因や、彼等の英雄や与した者達の裏切りのせいにすることで慰安を求めた。多くの南部人はその生活様式が北部によって混乱させられたと感じた〔Gallagher (2000) p. 1〕。 「失われた大義」という言葉は、歴史家エドワード・A・ポラードの1866年の著書『失われた大義:アメリカ連合国の戦争に関する新しい南部の歴史』という表題で初めて現れた〔Ulbrich, p. 1221.〕。しかし、「失われた大義」を永続する文学と文化の現象として確立させたのは、ジュバル・アーリー元中将によって南部歴史協会のために書かれた記事だった。 アーリーがその見解について最初に思いついたのはロバート・E・リー将軍その人からだった可能性がある。リーは北バージニア軍に対する解散命令を発したとき、南軍が敵に回して戦った「圧倒的な資源と勢力」について語った。アーリーに宛てた手紙では、その軍隊がユリシーズ・グラント中将の軍隊と対抗した1864年5月から1865年4月まで(オーバーランド方面作戦からピーターズバーグ包囲戦まで)の敵軍勢力について情報を求めていた。リーは、「私の唯一の目的は、もし可能ならば、事実を後世に伝え、我々の勇敢な兵士達を正当化することである」と書いた〔Gallagher, p. 12.〕。リーは別の手紙で、「北軍に破壊された個人資産などとその数に関する統計」を全て求めたが、これは両軍勢力の違いを示そうとしたからであり、「我々が戦った戦争の勝算を世界に理解させるのが難しい」であろうと考えたからだった。敗北の責任についてリーを非難した新聞の記事を引用し、「私は適切に注釈しようとは考えなかった、すなわち私の言葉や行動を誤って記述されていても正そうとすら考えなかった。我々は少なくとも暫くは辛抱し耐えるべきだ。...現在大衆の心理は真実を受け入れる準備ができていない」と書いた〔。これらことの全ては、アーリーと「失われた大義」の著作家達が「19世紀の広い潮流を獲得し、今日まで顕著に残り続けている」主題である〔Gallagher and Nolan p. 43.〕。 失われた大義の主題はアメリカ連合国古参兵の会や南軍の娘達の会のような戦争を記念する団体に取り上げられ、レコンストラクションを含め、戦後時代における社会と政治と経済の劇的な変化にある程度まで南部人が対応することに貢献している〔Ulbrich, p. 1222.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部の失われた大義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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