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南部 信行(なんぶ のぶいき)は、鎌倉時代から南北朝時代頃に活躍した武将。 別名を六郎・祐時。薩摩守 『南部系譜』が採用されている「南部史談会誌」によれば、南部義行の子にして南部義重・南部茂時・南部信長・南部仲行・南部茂行らの弟で、 *1319年元應元年、兄信長、仲行、茂行らと、兄、茂時に従い糠部に向かう。 *1333年元弘3年高時ノ亡ルヤ茂時季弟六郎信行鎌倉ニ在リ伊達某ト北条泰家ヲ扶ケ陸奥ニ奔ル後チ諸兄ト興ニ勤皇ス」とある。〔「異説」 『盛岡南部氏物語』吉田政吉著では、遠野南部家へ伝わった南部家系譜『嫡家系譜』の記録として、南部信行に相当するのは南部太郎として、南部義元嫡子の南部義行としている。〕 *1335年建武2年12月北畠顕家の義良親王を奉じた尊氏討伐西上の軍に、信長,仲行,茂行ら4兄弟と共に従う【南部諸奮記ヲ参酌ス】 *1338年延元3年正月吉野に逃れた顕家に従い行宮に謁して薩摩守を任ぜられる。 *1360年「正平15年6月5日 信行ヲ津軽田舎郡黒石郷並鼻和郡目谷郷ニ分封ス」 としている。〔この地を北畠顕信が同日付の御教書にて南部薩摩守へ宛てた事は古文書から明らかになっており、『八戸根城と南部家文書』によれば南部薩摩守は南部信政の子とされる南部信光としているが、『南部史談会誌』では南部義行の第六子の南部南部信行としている。〕 岩手県二戸市浄法寺町には、源信行が天台寺に[大旦那源信行]で寄進した1363年(正平18年)銘の銅製鰐口がある。 南部史談会誌によれば、この南朝年号の刻まれた鰐口は経二尺の巨大なもので、南部11代信長の弟、信行の奉納としている。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部信行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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