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南部光行 : ミニ英和和英辞書
南部光行[なんぶ みつゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
南部 : [なんぶ]
 【名詞】 1. southern part 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 

南部光行 : ウィキペディア日本語版
南部光行[なんぶ みつゆき]

南部 光行(なんぶ みつゆき)は、日本平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将加賀美遠光の三男。南部氏の始祖。
== 略歴 ==
治承4年(1180年)、石橋山の戦い源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部五郡を与えられ〔糠部五郡とは糠部郡岩手郡閉伊郡鹿角郡津軽郡 (陸奥国)のことだとされているが、これらは後の16世紀半ば南部氏領の最大版図とほぼ同域であり、豊臣政権から領地安堵してもらうことと津軽地方を押領している大浦(津軽)為信惣無事令に違反する逆徒と訴えていることについて、歴史的にも正当性があるように南部家伝を捏造したと考えられている。〕、現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉に在住した。
また、『吾妻鏡』同年6月9日条に拠れば源頼朝鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めておりこの頃は「信濃」を名字としていたが、『吾妻鏡』建久6年(1195年)5月20日条の源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている。
また、健治元年(1275年)「六条八幡宮造営注文」に拠れば、列挙された甲斐国御家人の中に「南部三郎入道跡」が見られる。
死没年には建保3年(1215年)11月21日、嘉禎2年(1236年)3月18日など様々な説があるが、嘉禎4年(1238年)2月に将軍藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は1236年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。死後、従三位を贈られた。
六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光三戸南部氏を継ぎ、三男の実長八戸氏の祖、四男の朝清七戸氏の祖、五男の宗清四戸氏の祖、六男の行連九戸氏の祖にそれぞれなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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