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南部 利恭(なんぶ としゆき、安政2年10月9日(1855年11月18日) - 明治36年(1903年)10月19日)は、陸奥国盛岡藩第15代(最後の)藩主。第14代藩主・南部利剛の長男。官位は従二位、甲斐守。伯爵。 幼名は彦太郎、初名は剛毅。文久3年(1863年)9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年(1868年)10月9日、戊辰戦争に際し、南部信民とともに官軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父利剛とともに東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、父利剛が明治新政府から隠居を命じられたため、家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で官軍と交戦したため、陸奥国白石13万石に減転封された。明治2年6月18日、版籍奉還により、白石藩知事に就任する。同年6月28日、従五位下甲斐守に叙任する。 明治2年7月22日、盛岡藩知事に転任する。盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束した。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。明治17年7月、伯爵となる。 正室は伊達宗城の娘、継室は溝口直溥の娘、浅野懋昭(としてる)の娘・喜久子(1856-1902、長勲の実妹にあたる)。子は、長男・南部利祥(南部家第42代当主)、次男・南部利淳(南部家第43代当主)、庸子(毛利元秀室)。 == 栄典 == * 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵〔『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。〕 * 1902年(明治35年)6月20日 - 正三位〔『官報』第5688号「叙任及辞令」1902年6月21日。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部利恭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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