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東 政図(ひがし まさみち)は、幕末盛岡藩の勤皇派家老で盛岡県大参事。後に外務省に入省し外交官となる。興亜会会員であり、そのアジア主義思想は石原莞爾にも影響を与えた。 一般に書籍などでは『東次郎』の表記で紹介される事が多い。 == 生涯 == === 藩政改革と戊辰戦争 === 父の政博は、石原汀や田鎖左膳を重用して悪政を敷いた南部利済に抗議して自害したため、東家は家禄や家屋を没収され南部姓の名乗りも剥奪された。しかしその家格のために再興を許され、350石で召し出された。嘉永3年(1850年)、13代藩主南部利義の小姓となり、同5年には近習頭となる。その後嘉永三閉伊一揆を受けて藩政の立て直しを迫られた盛岡藩は、家老に昇進した政図や楢山佐渡といった若手の人材を登用して事に当たった。これから政図と佐渡は幕末の盛岡藩の主導的立場を担うこととなるが、政図の急進的な改革論は佐渡を始めとする藩内保守層からの反発を招いたために、失脚した。以後政図は2回に渡り辞職と復職を繰り返しながら藩政に関わっていく。 戊辰戦争のうち会津戦争が始まると盛岡にも奥羽鎮撫総督の九条道孝一行が進駐したが、この時はまだ藩論が定まらなかったため軍資金1万両を払い領内退去を願う形となり、道孝らは庄内藩討伐のため秋田へと向かった。久保田藩はこの時仙台藩が送った使者を殺害して総督側への忠節を示したが、殺害された人数の中には盛岡藩士も含まれていたために藩内の強硬派を勢いづかせることとなった。その後仙台藩からの秋田討伐令と、総督側からの秋田を援けて庄内を討つべしという指令との間で藩論を二分しての争いとなるが、この時陰で反同盟論を主導したのは蟄居謹慎中であった政図であった。藩の重鎮家老を集めあくまで反同盟で行くべきと主張したが、結局は楢山佐渡ら強硬派に押し切られ盛岡藩は秋田戦争に突入し、敗北する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東政図」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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