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南部 正太郎(なんぶ しょうたろう、男性、1918年11月23日 ‐ 1976年11月5日)は、日本の漫画家。昭和20年代の関西漫画界の第一人者〔『朝日新聞』1976年11月6日朝刊物故者覧プロフィール〕で、代表作に焼け跡派の4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」がある。生前は大阪読売新聞夕刊の「マンガアンデパンダン」選者、日本漫画家協会関西支部所属。 ==生涯== 1918年11月23日、岐阜県大垣市生まれ。すぐ大阪府高槻市に移住〔『CD現代日本人名録 物故者編2004』日外アソシエーツ株式会社、2004年〕。 1937年、都島工業学校建築科卒業後、大阪の建築事務所で働きはじめる。一時的に大映京都撮影所で助監督を務めるが、建築事務所に復帰〔『昭和新聞漫画史』毎日新聞社、1981年〕。 1945年、勤めていた建築事務所が解散。漫画を描きはじめ、大阪新聞社の雑誌『漫画日本』や『読物と漫画』(『大阪パック』改題)で作品を発表。『漫画日本』に掲載された「千一夜」が『大阪新聞』編集部の目に留まり、年末に『大阪新聞』で「Q太郎青春メモ」を短期連載〔清水勲『大阪漫画史 漫画文化発信都市の300年』ニュートンプレス、1998年12月〕。 1946年、『大阪新聞』3月12日付から4コマ漫画「ヤネウラ3ちゃん」連載開始。戦後日本の世相・風俗取り入れた作風が評判を呼び、本作を読むために新聞を買う人の行列ができ、松竹で喜劇として上演、“3ちゃん”を冠したお店が大阪に数か所作られるほどだった〔。手塚治虫は「ロストワールド」執筆時に「この漫画、もっと3ちゃんみたいになりまへんかな」と意見されたという〔中野晴行『手塚治虫と路地裏のマンガたち』筑摩書房、1993年〕。年末、手塚治虫らと関西まんが人クラブに参加。これは東京へ行かずに関西で漫画の根を生やそうとした会〔手塚治虫『漫画の奥義 作り手からの漫画論』光文社、2007年〕。 1947年、手塚治虫、武田将美とスリー・マンガ・クラブを結成。南部は8ミリ映画に凝り、自作の劇映画を見せることもあった〔手塚治虫『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝』大和書房、1979年〕。東京の『朝日新聞』から連載の声がかかり〔『大阪新聞』での手ごたえから自信をもって東京へ上京したが、大阪出身者への偏見から苦労し〔われら六稜人【第39回】がちゃぼいマンガ道 第5話 男子志を立てて東京へ出る (1973年10月9日北野高校講堂における手塚治虫の講演採録)〕、大阪に戻ってきたという〔うしおそうじ『手塚治虫とボク』草思社、2007年〕。 1976年11月5日、脳溢血のため兵庫県宝塚市の大室病院で死去。57歳。手塚治虫も東京から駆けつけ、葬儀を執り行った〔『大阪新聞75周年記念誌』大阪新聞社、1997年12月〕。生涯独身だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南部正太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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