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南雲孝 : ミニ英和和英辞書
南雲孝[みなみ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなみ]
  1. (n,vs) South 2. proceeding south 
: [くも]
 cloud
: [こう]
 【名詞】 1. filial piety 

南雲孝 ( リダイレクト:新藤孝衛 ) : ウィキペディア日本語版
新藤孝衛[しんどう こうえ]

新藤 孝衛(しんどう こうえ、1932年2月 - )は、日本の実業家映画監督脚本家映画プロデューサーである〔園長・理事長 、学校法人川口ふたば幼稚園、2012年7月12日閲覧。〕〔新藤孝衛 、''jlogos.com'', エア、2012年7月12日閲覧。〕〔''新藤孝衛''、日本映画情報システム、文化庁、2012年7月12日閲覧。〕〔''新藤孝衛''日本映画データベース、2012年7月12日閲覧。〕。映画プロデューサーとしての名を新船 澄孝(あらふね すみたか)とし〔''新船澄孝''、日本映画データベース、2012年7月12日閲覧。〕、1972年(昭和47年)、映画監督としての名を南雲 孝(なぐも たかし)と改名した〔。現在、学校法人川口ふたば幼稚園理事長〔。
== 人物・来歴 ==
1932年(昭和7年)2月、埼玉県北足立郡芝村大字柳崎(現在の同県川口市柳根町)に生まれる〔。祖父は芝村の村議を歴任、父はのちの川口市議会議長となる新藤勝衛である〔。新制の埼玉県川口市立川口高等学校(現在の埼玉県立川口高等学校)に入学、水泳部で活躍する〔。のち同校を卒業し、日本大学経済学部に進学、ヨット部で活動し、父が会長を務める埼玉県ヨット連盟(現在の埼玉県セーリング連盟)に助力する〔〔ヨットにかけた想い 谷さんのこと 新藤義孝、2004年10月25日付、2012年7月12日閲覧。〕。
1954年(昭和29年)3月、同学卒業とともに、同年4月、大映(現在の角川書店映像事業部門)に入社、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に配属され、助監督となる。そのころ新人女優として、早稲田大学仏文学科在学中の栗林たか子(1935年 - 2004年)が入社、やがて新藤はたか子と結婚する。1957年(昭和32年)、入社満3年で退社、フリーランスとなり、PR映画等を手がける。1958年(昭和33年)1月20日、長男・新藤義孝が誕生する。
1963年(昭和38年)10月、成人映画指定を受けた『おいろけ作戦 プレーボーイ』で劇場用映画の監督としてデビューする〔〔。同年11月、映画の製作プロダクション「青年芸術映画協会」を結成する。翌1964年(昭和39年)、東芝レコード(現在のEMIミュージック・ジャパン)所属の歌手・内田高子を主演女優に起用、成人映画『セクシー東京'64』(1965年3月公開題『肉体のドライブ』)を撮り、話題となる〔内田高子 、''jlogos.com'', エア、2012年7月12日閲覧。〕。1965年(昭和40年)5月に公開された『雪の涯て』は非常に評価が高く、同作で、内田高子に続いて東芝レコード所属の歌手・新高恵子を映画デビューさせた〔、2012年7月12日閲覧。〕。このころ佐々木元らが師事した。
1969年(昭和44年)、父の勝衛が学校法人川口ふたば幼稚園を設立、新藤は理事長に就任する(現職)〔。
1971年(昭和46年)3月に公開された『現代寝わざくらべ』を最後に本名での作品発表をやめ、『抱いてい教えて 性と行動』をプロデューサー名「新船澄孝」で発表、1972年(昭和47年)2月に公開された『十七才の情婦』以降、「南雲孝」と改名する〔〔''南雲孝''、日本映画情報システム、文化庁、2012年7月12日閲覧。〕。1975年(昭和50年)5月に公開された『発情娘 セックス体験』を最後に、監督業を辞めている〔〔〔。1980年(昭和55年)前後には、佐藤忠男川喜多かしこ清水晶登川直樹らとともに、フィルム・ライブラリー協議会(現在の川喜多記念映画文化財団)の幹事を務めている〔『映画年鑑 1981』、p.230.〕。当時も現在も、日本映画監督協会には登録していない〔 『映画年鑑 1978』、p.281, 299.〕〔 / 日本映画監督協会、2012年7月12日閲覧。〕。
1988年(昭和63年)、父の勝衛が勲四等瑞宝章を受章、1996年(平成8年)5月に死去した〔。2004年(平成16年)6月3日、妻のたか子が死去した〔。
2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、新藤の監督した作品のうち『肌香の熱風』(1966年)、『幼な妻 初夜のよろこび』(「南雲孝」名義、1972年)、『青春悲歌 夜の姿態』(同、1973年)、『女遊び初体験』(同)、『夫婦交換 夜の秘戯』(同)、『若妻夜ごとの戯れ』(同)の6作の上映用プリント等を所蔵している〔''新藤孝衛、南雲孝''東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年7月12日閲覧。〕。同センターは、2003年(平成15年)度には『恐るべき女子学生 思春期前期』(1964年)、『色と欲』(1965年)の上映用プリントの洗浄・修理を行っており、同2作も所蔵している〔平成15年度 独立行政法人国立美術館 事業実績統計表 国立美術館、2012年7月12日閲覧。〕。デジタル・ミームは、『浮気妻』(1967年)の上映用プリントを所蔵しており、レンタルを行っている〔浮気妻 デジタル・ミーム、2012年7月12日閲覧。〕。『青い暴行 異常体験』(1967年)は、ハミングバード(のちのマイカルハミングバード)がVHSビデオグラムを発売していた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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