|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 単 : [ひとえ, たん] 【名詞】 1. one layer 2. single ・ 福 : [ふく] 【名詞】 1. good fortune
徐 庶(じょ しょ、? - 234年?)は、中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家。字は元直(げんちょく)。元の名は福であり、単家(たんか、あるいはぜんかと読み、権勢のない家柄、或いは寒門の意味)の出身である。『三国志』「諸葛亮伝」注に引く『魏略』に略伝がある。豫州潁川郡長社県〔明・凌迪知『万姓統譜』巻7〕(現在の河南省許昌市周辺)の出身。 ==生涯== 撃剣の使い手で、義侠心に厚く友人の敵討ちを引き受けるが役人に捕らわれる。後日友人が助け出し、心に強く感ずるところがあったので、以降は剣を捨て、学問に励むようになった。こうして出身地を同じくする石韜と親しく交際するようになった。後漢の中平年間(184年 - 189年)、戦乱が激しくなると、石韜と連れだって荊州に移住し、司馬徽の門下生となった。さらに諸葛亮・孟建と特に親しくなった。 徐庶・孟建・石韜は学問を精密に理解しようと努力したが、諸葛亮は大要を掴むことに努めた。諸葛亮は「徐庶・孟建・石韜は仕官すれば、州刺史か郡太守くらいにはなれるだろう」と言ったが、自分の事は言わなかった。 その頃、劉備は荊州新野(河南省南陽市新野県)に駐屯していた。徐庶は劉備と会見し、劉備は彼を有能な人物だと思った。徐庶は諸葛亮を推薦し、劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、徐庶は「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れて来ることはできません」と言った。こうして、劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎え入れることになった。 後に劉備が曹操に敗北した折、徐庶の母が曹操軍の捕虜になると、動揺した徐庶は劉備に別れを告げて曹操の下に赴いた。その後は魏に仕え、右中郎将・御史中丞にまで昇った。また石韜は郡太守・典農校尉を歴任している。後に諸葛亮は北伐を行なった際に二人の官職を聞き知り、各々の才能に不充分な官職と思い、「魏は取り分け人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか」と嘆いたという。とはいえ、二人とも先の諸葛亮の予想程度には出世している。また孟建は征東将軍・涼州刺史となっている。 なお徐庶の没年は不詳だが、明帝期に亡くなったと史書に記されており、上記『魏略』によれば、諸葛亮と同じころに彭城で病死したと記されている。また、徐庶は御史中丞あたりまで「福」を名乗っていて、晩年に「庶」と改名したらしい。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐庶」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Xu Shu 」があります。 スポンサード リンク
|