|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 原 : [はら, もと] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
幸斉 たけし(こうさい たけし、1953年8月8日 公称 - )は、日本の歌手、作詞家、作曲家である。本名は平田 睦篤(読み不詳)〔原みつるとシャネル・ファイブのデビューシングル『稚内ブルース』(1971年発売、キングレコード)のジャケットおよび盤面の記述を参照。〕、、歌手としての芸名は平田 満(ひらた みつる)(「エリートメン」「シャネル・ファイブ」時代の旧芸名は原 みつる(はら みつる))である。1976年(昭和51年)、東北弁ラップの先駆『愛の狩人』のみのヒットを持つ、いわゆる「一発屋」として知られているが、のちに平田がセルフカヴァーした木立じゅんの1968年(昭和43年)のヒット曲『484のブルース』の作詞・作曲者である。 == 略歴・人物 == 1953年(昭和28年)8月8日(公称〔)、北海道札幌市に生まれる。この「公称生年月日」が正しいとすると、作詞・作曲家デビューした1968年に15歳の中学3年生ということになる。 1968年(昭和43年)、テイチクレコード(現テイチクエンタテインメント)から木立じゅんがリリースしたシングル『484のブルース』に作詞・作曲した表題曲を提供したことが、現在、歌謡史に現れる平田の最初の記録である。同曲は、テイチクの大御所・高月ことばが補作詞をし、野崎眞一が補作曲を施しているが、当時の所在地「苗穂町484番地(現札幌市東区東苗穂2-1-5)」にあった札幌刑務所を歌った歌詞が問題視されて「放送禁止歌」とみなされた。のちのソロデビュー後に平田は同楽曲をセルフカヴァーしている。木立のシングルのB面はテイチクの巨匠・上原げんとの実弟上原賢六の楽曲『無情の薔薇』で、AB面ともに、札幌の伝説の無頼・「枯れ木のバラ」こと荏原哲夫(1924年 - 1956年)を歌ったものであった。 1971年(昭和46年)7月、キングレコードに移籍し、「原みつるとシャネル・ファイブ」として、藤本卓也作詞・作曲の表題曲をもつシングル『稚内ブルース』でデビュー、同年、同名の2枚組のカヴァー中心のアルバムをリリースした。翌1972年(昭和47年)にはおなじく藤本の作詞・作曲による『信ずる他にない』、のちに五木ひろしがカヴァーする『港の五番町』をリリースする。1973年(昭和48年)には、平田が作詞・作曲したシングル『ハッキリ小唄』をリリース、これが平田の作家デビューとなる。同年、平田作曲によるシングル『くやし泣き』をリリースする。1975年(昭和50年)、ライヴ・アルバム『シャネル・ファイブ・イン・サッポロ』をリリースし、「原みつるとシャネル・ファイブ」のレコードリリースは終了する。 1976年(昭和61年)2月5日、作詞・作曲時に用いた筆名平田満に芸名を変え、シングル『愛の狩人』でソロデビューする。同作は、オリコンチャート最高順位21位のヒットとなった。同年10月に発売されたソロ・サードシングル『もしもお許し願えれば女について話しましょう』はヒットせず、ジャケット写真の衣裳もバックのホリゾントも、『愛の狩人』とまったく同一のものが使用されている。バックバンドは「シャネル・ファイブ」である。同年、アルバム『愛の狩人』を「平田満+シャネル・ファイブ」名義でリリースした。 『愛の狩人』等の作曲の金野孝は作曲家浜圭介の本名であり、編曲の土持城夫は『男どアホウ甲子園』(作詞佐々木守、1970年)の作曲者であり、平田隆夫とセルスターズ『ハチのムサシは死んだのさ』(作詞内田良平、作曲平田隆夫、1972年)の編曲者として知られる。作詞の本野丈弾は、JASRACにも信託しておらず、平田の4曲しか作詞をした形跡がない。正体不明である。本野が作詞した『愛の狩人』も、『もしもお許し願えれば女について話しましょう』も、かつてヒットした洋画のタイトルを借用している。前者はマイク・ニコルズ監督の1972年の作品『愛の狩人』、後者はエットーレ・スコラ監督の1964年のデビュー作、1字違いの『もしお許し願えれば女について話しましょう』である。 「『東村山音頭』は、志村けんに先駆けて正調でリリースするもヒットせず」との説が流布しているが、これは誤り。平田ヴァージョンの発売は1976年6月21日、志村ヴァージョンの発売は9月1日と確かにリリースは平田が先だが、バラエティ番組「8時だョ!全員集合」における同曲の登場は1976年3月6日であり、志村のほうがやはり早かった。いずれにしても、近田春夫のハルヲフォンのデビュー盤が『FUNKYダッコNo.1』(1975年)であったことにも象徴される、当時のキングレコードの得意とする企画盤である。 翌1977年(昭和52年)に「シャネル・ファイブ」がシングル『ヘイ! マダム』をリリースしたが、これに平田が参加したかどうかは不明である。楽曲は提供していない。1979年(昭和54年)には、平田が作詞作曲した前述の楽曲のセルフカヴァー『484のブルース』をシングルリリースしている。 平田はJASRAC会員であり、全信託作家である〔JASRAC公式サイト「www.jasrac.or.jp 」の記述を参照。〕。現在、平田の歌唱音源でCD化されているものは、『ビューティフルサンデー』と、シャネル・ファイブ時代の『稚内ブルース』、『信ずる他にない』、『白い慕情』、『港の五番町』、『くやし泣き』、カヴァー楽曲の 『長崎は今日も雨だった』のみである。また作家としての音源は、木立じゅんおよび松方弘樹の歌う『484のブルース』が音源がCD化されている〔#外部リンク内のYahoo! ミュージック「幻の名盤解放歌集」ほか各リンク先の記述を参照。〕。 2001年(平成13年)5月16日に発売された山川豊のシングル『泣かないで』に収録された、『放浪路』(作詞菅麻貴子)の作曲を「幸斉たけし」名義で行ったのが、同名義での最初の仕事である〔。2005年(平成17年)11月23日には、同名義で作曲した大石まどかの『冬のれん』(作詞仁井谷俊也、編曲石倉重信)がシングル発売され、2010年(平成22年)3月17日には、同名義で作曲した新沼謙治『銀河の町から』(作詞幸田りえ、編曲石倉重信)がシングル発売されている〔。現在札幌市中央区に「幸斉音楽事務所」を構えており、2012年(平成24年)2月18日には、札幌のライヴハウスで、同事務所主催によりシャネル・ファイブの再結成ライヴを行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「幸斉たけし」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|