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原 一男 (はら かずお、1945年6月8日 - )は日本の映画監督。疾走プロダクション所属。妻は疾走プロダクション代表の小林佐智子で、ほとんどの作品で共同作業を行っている。 == 経歴・人物 == 1945年、山口県宇部市出身。 東京綜合写真専門学校中退。1969年には銀座ニコンサロンで写真展「馬鹿にすんな!」を行う。この時点までは写真家志望だったが、写真展を見にきた小林佐智子(シナリオライター志望だった)と知り合い、後に共同して映画を撮ることになる。 60年代後半~70年代初頭にかけて、東京12チャンネルで過激なドキュメンタリーを撮っていた田原総一朗(後、東京12チャンネル編成部長)の著書『青春 この狂気するもの』(三一新書 1969年刊行)を読み、大きな影響を受け、田原が製作する『ドキュメンタリー青春』シリーズを夢中で見るようになる。 そして、田原の撮影現場に出入りするうち、「僕のドキュメンタリーに出演しないか?」と声をかけられ、1971年、当時の同棲相手の武田美由紀と、2人の間の子供との3名で、日本各地のカップルたちを訪ね歩く田原のTVドキュメンタリー「日本の花嫁」に出演。 同年、田原が初の劇映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』(1971年)を監督する際は、助監督を志望するが適わなかった。なお、水道橋博士の著書『本業』によると、田原の言葉として、「原一男は俺の作品の助監督だったんだよ」とあるが、田原の認識間違いだと思われる。 なお、1976年の田原の著書「異常愛 ケーススタディ ドキュメント完全採録」では「取材協力」を行っている。 1972年には小林佐智子と「疾走プロダクション」を結成。光明養護学校での勤務経験をもとに、脳性麻痺の障害者自立運動家横塚晃一ら全国青い芝の会のメンバーを描いた『さようならCP』。そして、フェミニストである自分の元同棲相手(武田美由紀)を追った『極私的エロス 恋歌1974』と、異色のドキュメンタリー作品を監督・撮影し、高い評価を得る。 そして、奥崎謙三を追った『ゆきゆきて、神軍』(1987年)により、ベルリン国際映画祭にてカリガリ映画賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリ受賞。1991年より文化庁新進芸術家在外研修員としてアメリカに留学。さらに、作家井上光晴を取材するうちに、井上の経歴詐称が判明していく『全身小説家』 (1994年)と、怪作ともいえるドキュメンタリー作品を監督した。 「カメラを向けられると、演技してしまう出演者」を取材対象としてドキュメンタリーと劇映画の区別を判別困難にする「虚実不明」の状況にし、またドキュメンタリー映画が本来持つ「やらせ的志向」を省略せずに描き、「ドキュメンタリー映画の持ついかがわしさ」を露呈させた(この手法は、田原の『青春 この狂気するもの』に書かれていたものである)。 1995年、次世代のドキュメンタリー作家の養成を目指し、自ら塾長となって「CINEMA塾」を開塾。1999年、「CINEMA塾」第1回作品『わたしの見島』を製作、劇場公開。その後も、何本もの映画を塾生たちが製作したが、現在は、開店休業状態である。なお、2006年度日本映画監督協会新人賞を受賞した小林聖太郎は「CINEMA塾」の第一期生である。 現在、大阪芸術大学映像学科教授、シューレ大学アドバイザー 。 なお、1992年にNHKスペシャルにて放送されたドキュメンタリー番組「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」で、やらせ問題が発覚して社会的な話題となった。その際、「ドキュメンタリーには『やらせ』が付きものであり、『やらせ』を乗り越えることにより、真実が見えてくる」という信念を持つ原は、その考え方の元祖であり「師匠格」の田原総一朗に、1993年に、ドキュメンタリー作品と「やらせ」の関連について、インタビューを行った。(下記の外部リンク参照) だが、その際に、田原の唯一の劇場公開映画作品で、「傑作」とされている、『あらかじめ失われた恋人たちよ』について、監督補の尾中洋一にインタビューしたところ、田原は劇映画の演出能力もなく、現場を掌握することもできず、この映画は尾中主導で撮影されていたことが判明した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原一男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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