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原 保太郎(はら やすたろう、1847年(弘化4年7月) - 1936年11月2日)は、幕末の園部藩士、明治の官僚・政治家。貴族院議員、錦鶏間祗候。神道無念流の練兵館塾頭を務めた剣客としても知られた。 == 経歴 == 園部藩士・原官次の三男として生まれる。江戸の練兵館で剣術を修行し、練兵館塾頭になったが、園部藩を脱藩して京都に上り、岩倉具視の食客となる。戊辰戦争では、東山道総督随行、上野国巡察使兼軍監として従軍した。その際、江戸幕府の元勘定奉行・小栗忠順と家来を罪状も無いまま捕らえ、取り調べもせず、一方的に斬首に処した(なお、後に小栗忠順は大隈重信や東郷平八郎にその近代化政策の功績を称えられている)。 明治4年(1871年)にアメリカ合衆国へ命により留学しラトガース大学で学ぶ。1874年頃にイギリスに渡り、原六郎と共にキングス・カレッジ・ロンドンで経済学などを学ぶ。1876年に帰国。 帰国後、兵庫県少書記、同県大書記官、山口県令などを歴任し、1886年に初代山口県知事に就任。1895年3月、日清戦争の下関講和会議に出席していた清国大使・李鴻章が狙撃される事件が起こり、その責めを負い知事を辞任した。同年7月、福島県知事に任命され復帰。さらに、北海道庁長官、農商務省山林局長兼林野整理局長を務めた。 1903年7月15日、貴族院議員に勅選され〔『官報』第6011号、明治36年7月16日。〕、同和会に属し死去するまで在任した。1905年9月1日に錦鶏間祗候となる〔『官報』第6654号、明治38年9月2日。〕。また、維新史料編纂会員なども務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原保太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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