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原口 兼済(はらぐち けんさい、1847年4月2日(弘化4年2月17日) - 1919年6月18日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。 ==経歴== 森藩士・林寛吾の四男として生まれ、同藩士・原口等の養子となる。1870年、陸軍兵学寮青年学舎に入り、1872年、陸軍少尉に任官し5番大隊付となる。歩兵第1連隊大隊副官、陸軍士官学校付などを経て、1877年3月から9月まで西南戦争に出征した。 歩兵第3連隊大隊長、陸士生徒司令官、陸軍戸山学校次長、ドイツ差遣、戸山学校長、近衛歩兵第1連隊長などを歴任し、日清戦争末に第4師団参謀長として出征したが終戦となった。再度、戸山学校長となり、1897年9月、陸軍少将に進級。歩兵第20旅団長、台湾守備混成第1旅団長、歩兵第17旅団長、留守第1師団長、韓国駐剳軍司令官、大本営付、教育総監部参謀長などを経て、1905年1月、陸軍中将となった。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行、樺太全土を占領した。1906年7月に休職し、翌年11月13日、予備役に編入された〔『官報』第7315号、明治40年11月14日。〕。1909年4月1日、後備役となる〔『官報』第7754号、明治42年5月4日。〕。1914年4月1日に退役した〔『官報』第503号、大正3年4月6日。〕。 1907年9月、男爵を叙爵。1910年8月から1918年7月まで貴族院議員を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原口兼済」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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