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原手合戦(はらてがっせん)は、永禄12年8月(1569年9月)に山中幸盛ら率いる尼子再興軍と、それを殲滅しようとする毛利軍との間に起こった戦いである。戦いの場所が原手郡(現在の島根県出雲市斐川町)で行われたことから、原手合戦と呼ばれる〔『陰徳太平記』は巻四十三に記載される。『雲陽軍実記』は第四巻に記載される。〕。 == 合戦までの経緯 == 永禄12年(1569年)、尼子再興を目指す尼子勝久ら尼子再興軍は、隠岐から出雲へと上陸し、出雲忠山(現在の島根県松江市美保関町)に本陣を設営した。その後破竹の勢いで出雲の諸城を攻略し、ほぼ出雲一国を手中に収めんとするまでに勢力を拡大した。 しかし、出雲の拠点である月山富田城の攻略に手間取ったこともあり(月山富田城の戦い)、石見銀山を守備していた服部左兵衛ら毛利軍が、小田助右衛門を大将に尼子再興軍を討伐するため進軍する。小田助右衛門らは、約3,000〔『陰徳太平記』による。〕の兵を率い出雲戸倉(現在の島根県出雲市稗原町)から原手郡(現在の島根県出雲市斐川町)を目指した。これを迎え討つため山中幸盛ら尼子再興軍は、約2,700〔〔『雲陽軍実記』による。〕〔尼子再興軍2,000、隠岐為清軍700、計2,700。米原綱寛は軍500率い出陣したが、遠くに陣を張って傍観していた。〕の兵を率い原手郡へ進軍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原手合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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