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原 采蘋(はら さいひん、寛政10年(1798年) - 安政6年10月1日(1859年10月26日))は、江戸時代後期の女流詩人。名は猷(みち)。采蘋は号で、他に霞窓などを名乗る。江馬細香・梁川紅蘭らとならぶ、江戸後期の女性漢詩人の代表的人物。男装の女流詩人として知られる。 ==生涯== 寛政10年(1798年)筑前の秋月藩に仕える父・儒学者原古処と母・ゆきの娘として生まれる。兄と弟が病弱だったため、父から期待され、漢文・詩・書道について教えを受けた。古処は江戸詰め勤務の際も娘を同行させたため、采蘋は少女時代から父に従って各地を旅し、詩を読み、各地の文人墨客と交流した。文政10年(1827年)父が死亡すると、父の遺稿を出版すべく、資金集めや出版のつてを得るため、単身で各地を遊歴し、文人と交流した。当時、女性が単身で旅行することは制度上も安全上も困難だったため、男装・帯刀して行動した。 地元の九州一円のみならず、西国や京都・大坂はもちろん東は江戸・房総半島まで足を伸ばしており、その間各地の高名な詩人と交流した。彼女と詩文を交換した詩人・学者として菅茶山・頼山陽・梁川星巌・佐藤一斎・松崎慊堂らがいる。山陽の愛人・江馬細香や星巌の妻・紅蘭もまた、高名な女性詩人であった。 男装のまま各地を旅し、生涯独身を通した。安政6年(1859年)、長州藩の萩へ土屋蕭海を訪ねたが、同地で病を得て客死。享年62。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原采蘋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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