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原田喜右衛門 : ミニ英和和英辞書
原田喜右衛門[はらだ きえもん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [みぎ]
 【名詞】 1. (1) right hand side 2. (2) above 3. afore-mentioned 4. foregoing 5. forgoing 
: [もん]
  1. (n,n-suf) (1) gate 2. (2) counter for cannons 

原田喜右衛門 : ウィキペディア日本語版
原田喜右衛門[はらだ きえもん]
原田 喜右衛門(はらだ きえもん、生没年不詳)は、安土桃山時代長崎商人キリスト教に帰依し「パウロ」の洗礼名を持ったが、のち背教している。
== 生涯 ==
喜右衛門は長崎の商人で、フィリピン貿易を営んでいた。
天正19年(1591年)、部下の原田孫七郎と共に、豊臣秀吉の使者として、スペインフィリピン日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに出向き交渉した。その答礼使としてドミニコ会派のフアン・コボが翌年来日した。喜右衛門は帰国するコボと共に、遣使としてフィリピンに渡ったが、コボが帰途台湾沖で遭難した。
文禄2年(1593年)4月、原田喜右衛門は豊臣秀吉の使者として、マニラに到着した。当時在マニラの支那人約2000人が蜂起して、スペインの総督府を襲ったが原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、支那兵を殲滅した。
喜右衛門はフィリピンは防備が薄いので、秀吉の征服は容易であると進言した。スペイン人商人のアビラ・ヒロンによれば、喜右衛門は裕福な商人であったが、破産していたと伝えられる。人柄は極めて聡明と評している〔<参考文献>アビラ・ヒロン『日本王国記』(岩生成一他訳)、村上直次郎編『異国往復書翰集』、中田易直『近世対外関係史の研究』 〕 。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「原田喜右衛門」の詳細全文を読む




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