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原田 宗資(はらだ むねすけ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。仙台藩重臣。 == 生涯 == 天正10年(1582年)、伊達氏家臣・桑折宗長の子として生まれる〔『桑折町史』資料編所載の「仙台桑折家系図」では、宗資は桑折景長の子で宗時の叔父となっているが、景長は天正5年(1577年)に既に死去している。〕。幼名は弁慶。 文禄2年(1593年)7月、文禄の役に従軍していた従兄・原田宗時が対馬にて病死すると、主君・伊達政宗の命で原田氏を継いで牡鹿郡大瓜領主となり、文禄4年(1595年)8月24日の秀次事件に際して認められた在京の重臣19人による連判状には父・宗長と共に署名している。 慶長5年(1600年)6月、政宗は徳川家康の命令により上杉景勝討伐に参加するため、5年ぶりに領国への帰還を許された。しかし、政宗一行が上杉領を通らずに帰国するためには、相馬領を通過する必要が有ったが、相馬氏とは天正16年(1588年)の郡山合戦以来の根深い対立関係があり、相馬家中にはこの機を逃さず政宗を殺すべきという意見も多く、このままでは無事に本国へ帰還することは不可能であったため、政宗は宗資に相馬方との折衝を命じる。宗資は相馬氏重臣・水谷胤重と会談して家中の説得を依頼し、その結果、相馬義胤から領内通過の許可を得ることに成功、一行は無事に本国に帰還することができた。 慶長11年(1606年)12月、政宗の長女・五郎八姫と松平忠輝との婚礼の際には、貝桶渡しの役を務め、慶長20年(1615年)には大坂夏の陣に従軍して多くの首級を挙げ、同年軍功により4,000石に加増されて柴田郡船岡城主となった。 元和9年(1623年)死去。享年42。嫡男・宗輔が家督を相続した。この宗輔が伊達騒動で有名な原田甲斐である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「原田宗資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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