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厳稜(嚴稜、げん りょう、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の人物。厳㥄とも書かれる。本貫は馮翊郡臨晋県。 == 経歴 == 華北の戦乱を避けて、黄河の南の地方に避難した。南朝宋の広威将軍・陳留郡太守に任じられ、倉垣に駐屯した。422年(泰常7年)、北魏の山陽公奚斤が南征して潁川に進軍してくると、厳稜は文武の官500人を率いて奚斤に降伏し、冀州の明元帝のもとに送られた。平遠将軍の位を受け、郃陽侯の爵位を受けて、仮の荊州刺史となった。明元帝に従って南征し、帰還すると上客となった。太武帝が即位すると、中山郡太守に任じられ、清廉な統治で評価された。自邸で死去した。享年は90。 子に厳雅玉があり、郃陽侯の爵位を嗣ぎ、平南将軍・東兗州刺史となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「厳稜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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