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双壽 : ミニ英和和英辞書
双壽[そう, ふた]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そう, ふた]
 【名詞】 1. pair 2. set 

双壽 ( リダイレクト:関西歌舞伎#双壽・扇鶴の時代 ) : ウィキペディア日本語版
関西歌舞伎[かんさいかぶき]

上方歌舞伎(かみがたかぶき)
#主に江戸時代の大坂京都を中心に発展した歌舞伎・技法・演出・演技法・演目・劇壇などの総称。江戸の江戸歌舞伎に対比する上方歌舞伎(かみがた かぶき)のことをいう。
#主に明治以降、関西の大歌舞伎やその一座・劇壇などの総称。特に戦後昭和になって関西で活動する歌舞伎役者の数が著しく減ると、関西ではもはや複数の座を組むことができなくなり、必然的に大看板の役者でも一座することを余儀なくされた。これを東京の菊五郎劇団吉右衛門劇団猿之助劇団などに対比する関西歌舞伎という。
== 江戸歌舞伎と上方歌舞伎 ==
上方歌舞伎は江戸歌舞伎とともに歌舞伎の両輪をなし、江戸歌舞伎が荒事と言う勇壮な芸を作り出したのに対し、和事とよばれる柔らか味のある芸を形成している。廻り舞台やセリ上げなどの舞台機構も上方で生まれるなど18世紀ころは上方歌舞伎の方が進んでいた。丸本物とよばれる人形浄瑠璃の歌舞伎化したものや、石川五右衛門など天下を狙う悪人が大活躍するお家騒動物などの脚本が多い。筋は複雑で喜劇的要素が見られる。全体的に趣向に富むが独創性に乏しく、19世紀後半の並木五瓶以後は、江戸歌舞伎の四代目鶴屋南北二代目河竹新七(黙阿弥)のような優れた作者は出なかった。このため今日上演される歌舞伎には、丸本物を除いて、上方系の作品が少ない。わずかに金澤龍玉作『渡雁恋玉章』(雁のたより)、近松徳三作『伊勢音頭恋寝刃』(伊勢音頭)、奈川亀輔作『敵討天下茶屋聚』(天下茶屋)あたりが残るくらいである。
以後上方歌舞伎は歌舞伎界の中心から外れてゆくが、これは文化の中心が上方から江戸へ移り、江戸歌舞伎が発展していくのと符合する。
演出も上方と江戸では異なる。今日上演される丸本物には上方式と江戸式の演出がある。一例を『仮名手本忠臣蔵・六段目』の勘平で示すと以下のようになる。
*勘平の衣装
 *江戸:勘平は水色の絹の紋服に着替える。
 *上方:勘平は終始猟師のやつし姿である。幕切れにおかやが紋服を肩にかけさせる。
これは、江戸が勘平の見た目の美しさを強調するに対し、上方は勘平はあくまで猟師としてであり、死に臨んで武士に戻るという理屈である。
*勘平の切腹
 *江戸:勘平は千崎と原に問い詰められ、割り台詞のうちいきなり切腹。
 *上方:千崎と原に問い詰められたあと、二人が与市兵衛の傷跡を確認しているときに切腹。
上方は浄瑠璃の文言「いすかの嘴のくいちがい」を活かして、無罪が晴れる直前に死ぬという悲劇性を強調する。
*幕切れ
 *江戸:勘平は手を組みおかやにだきかかえられて落ち入る。
 *上方:千崎・原を見送りに這っていき落ち入る(二代目實川延若の演出)。二人に平伏するやり方(初代中村鴈治郎)もある。
江戸のは様式性を重視する幕切れであるが 上方は最後は武士として礼を尽くすという理屈である。このように、合理的、論理的な面が目立つが、これは町人社会が成熟していた大阪という土地の特色も関係が有ると思われる。
観客をあの手この手で喜ばせるため、ケレンや、即興、その他アクの強い演出がとられたりするのも上方歌舞伎の特色である。娯楽性については、今日の吉本新喜劇や上方落語などにも同様の傾向が見られる。大正時代に『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)が大阪で上演されたとき、鳶と力士の双方の訴えをすることで幕切れとなった。そのとき「ええっ、もう終いでっか」「何じゃカスみたいなもんや」と観客から苦情が出た。このあと裁きの場が続いて出ると期待していたのである。江戸では「粋」とみなされる演出が上方では物足らなく見えるのである。逆に上方風の演出は江戸ではくどいとみなされ「野暮」に見えた。三代目中村歌右衛門四代目市川小團次が江戸の一部の観客に受け入れられなかったのもこの点にあった。上方歌舞伎の演出は戦後衰亡したが、近年、三代目市川猿之助四代目坂田藤十郎らの努力で再評価されている。
江戸時代は東西の歌舞伎交流が盛んに行われ、上方風の演出が数多く江戸にもたらされ江戸歌舞伎の栄養源ともなった。竹本と呼ばれる義太夫の使用、早変わりなどのケレン、現実的な演技などである。これらは四代目鶴屋南北河竹黙阿弥らにより江戸風の演出が加えられた。また、東西の歌舞伎俳優もしのぎを削り合う相手として芸の研鑽に勤め双方の芸の向上につながったのである。
上方では、「型」を重視せず、やり方は自分自身で創意工夫することが大事といわれた。江戸では様式美の継承が重んじられ、教えられたとおりにしないと非難されるが、上方では教えられたとおりにすると工夫が足らないと非難された。初代中村鴈治郎が同じ狂言を毎日違う形で勤めるなか、子の二代目鴈治郎(当時は初代扇雀)が父から教えられたとおりに『心中天網島・河庄』を勤めたとき「何で教わったままにするんや、お前の工夫はないやないか」と叱った事などは、その好例である。ゆえに代々の家の芸は作られなかったり途絶えたりした。そのせいか、上方歌舞伎役者の代数も江戸のそれに比べると極めて少ない。一方では、門閥外から実力で名題になる例が上方では多かった。これは、「家」と格式を重んじる武士の都の江戸と実力本位の町人の都大阪との違いが影響していると考えられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「関西歌舞伎」の詳細全文を読む




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