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古キエフ(ウクライナ語:''Старий Київ''、スタリーイ・キーイウ)は、ウクライナの首都キエフにある歴史的地名。古キエフ山とその周辺に位置している。山の手(Гора)、上町(''Верхнє місто'')、古町(''Старе місто'')とも呼ばれる。9世紀から13世紀にかけてキエフ大公をはじめ、ルーシの貴族、聖職者と軍人が暮らしていた場所。下町であるポジールと対比される。 ==概要== 古キエフの集落は5世紀末に形成されたと考えられる。6世紀から9世紀にかけてこの集落は要塞都市として発展した。研究史では当時の古キエフを「キーイの町」と呼んでいる。「キーイの町」は古キエフ山の西部に置かれ、約2ヘクタールの面積を占めていた。キエフの城壁内では大公の宮殿と貴族の屋敷が置かれた。 9世紀末から10世紀にかけてキエフの面積は12ヘクタールまで拡大した。城壁外でも貴族や軍人などの住宅が建設されるようになった。こうした中、キエフ大公であるヴォロディーミル聖公(980年–1015年)は、拡大した都市の周りに土と木でできた新たな城壁を築き、「ヴォロディーミルの町」と呼ばれる都市を形成させた。当時のキエフでは石造りの什一聖堂とバーバの市が建設され、西方にあったソフィアの門を正門としていた。市内では北欧のヴァイキングの屋敷もあり、10世紀末からキエフ府主教の座も存在していた。 11世紀前半にキエフはヴォロディーミルの子息ヤロスラーウ賢公(1019年–1054年)によってさらに改善され、中世ヨーロッパにおける最大の都市の一つになった。古キエフの面積は約80ヘクタールに及び、黄金の門を正門とする新たな城壁によって防衛された。1037年にヤロスラーウ賢公はキエフ府主教の座となった聖ソフィア大聖堂をはじめ、フレホーリイ聖堂、イリーナ聖堂などの教会を建立し、キエフは東欧におけるキリスト教の中心地となった。研究史では当時の古キエフを「ヤロスラーウの町」とよんでいる。 12世紀にヤロスラーウ賢公の子息イジャスラーウ (1054年–1068年、1069年–1073年)は古キエフの東北部に「イジャスラーウの町」を建設し、その中で聖ミハイール黄金ドーム大聖堂を建立した。 1240年にキエフはモンゴル帝国の攻撃を受け、著しい被害を蒙った。古キエフはほとんど破壊されて荒地となり、キエフの中心地は山の手から麓にあった下町のポージルへ移った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「古キエフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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