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古今亭志ん朝 : ミニ英和和英辞書
古今亭志ん朝[ここんてい しんちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふる]
 【名詞】 1. used 2. secondhand
古今 : [ここん]
 【名詞】 1. ancient and modern times 2. all ages 3. past and present 
: [こん]
 【名詞】 1. this 2. now
: [こころざし]
 【名詞】 1. will 2. intention 3. motive 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

古今亭志ん朝 : ウィキペディア日本語版
古今亭志ん朝[ここんてい しんちょう]

古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう)は、東京の落語家名跡。3代目の死去に伴い、現在は空席。
5代目古今亭志ん生門下より生まれた名前であり、これまで名乗った3人は全員5代目志ん生を師匠に持っていた(初代と3代目は実子)。
*初代古今亭志ん朝 - 後の10代目金原亭馬生。3代目志ん朝は実弟。
*2代目古今亭志ん朝(生没年不詳) - 戦後まもなく志ん生に入門し古今亭志ん一から1948年3月に志ん朝と改名。1949年5月まで落語協会の名簿に見えるが7月にはなくその頃廃業したと思われる。通称「魚屋の志ん朝」。本名は金田 睦男。一部資料ではこの志ん朝については触れず、美濃部強次の志ん朝を2代目とすることもある。
*3代目古今亭志ん朝。本項にて詳述。初代志ん朝こと10代目馬生は実兄。
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3代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 - 2001年10月1日)は、東京都文京区本駒込出身の落語家である。本名、美濃部 強次(みのべ きょうじ)。5代目古今亭志ん生の次男で、10代目金原亭馬生の弟、姪は女優池波志乃、義甥は俳優中尾彬出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。
7代目立川談志5代目三遊亭圓楽5代目春風亭柳朝と共に、若手真打の頃から東京における『落語四天王』と呼ばれた〔川戸貞吉『現代落語家論』弘文出版、1978年、58頁。演芸評論家の著者は5代目春風亭柳朝に替えて8代目橘家圓蔵を四天王の一人に揚げていた。〕。他に、同世代噺家の中では『東の志ん朝、西の枝雀』とも称される。
== 来歴・人物 ==
強次(きょうじ)の名は一時期の父の師匠初代柳家三語楼が出生日の陸軍記念日に因んで命名したとされている。
獨協高等学校ドイツ語を学んだ。当初は外交官になるという夢があり、後には毎年弟子を連れて大好きなドイツへ旅行に行った。
当初は役者を志しており、噺家になる意志はなかったが志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した。〔三人噺―志ん生・馬生・志ん朝〕。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に8代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに6代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。
同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して8代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に7代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。
一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。
落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られる。しかし前者に関しては父志ん生から猛反対され、後者では男性週刊誌記者から「落語家が豪邸を建てるとは何事か」・「長屋住まいを続け金に執着しない8代目林家正蔵(後の林家彦六)を見習え」と非難されたりと風当たりは強かった。しかし彦六の弟子の初代林家木久蔵(現・林家木久扇)は「これからの若手が経済面で手本とすべき存在」と高く評価している。
一方では、客入りの良くない名古屋の大須演芸場を守る足立席亭〔席亭とは、寄席の主人、経営者。あるいは寄席そのものの事。ここでは前者の意味。〕の心意気に感じて、1991年から毎年独演会を行った。
大阪では道頓堀角座に初めて出演した時、落語が受けなかったので漫談を高座に掛けて大いに受けた。ところが支配人から「漫談ではなく落語をしてもらうために呼んだのだ」と注意され、以降は落語をきっちり演じるようになった。大阪の客に東京の落語が受け入れられるまで5年かかったが、大阪の街を心から愛するようになったという。大阪の定宿としていた千日前の旧・上方旅館の女将の葬儀で、関西のしきたりで一番重要な”止め焼香”を遺族に懇願されて行ったりもした。現在は旅館を建て替えた建物にトリイホールを設け、上方噺家のみならず、志ん朝一門など東京の噺家も”大阪で定席を打てるホール”として、今も活用されている。もちろん、生前の志ん朝も「死ぬまでここでやる」と、大いに喜んだという。
落語以外にも、佃煮・ふりかけ「錦松梅」のCMキャラクターとしても有名で、「中身もいいけど、器もいいねえ」というCM中のセリフを、高座では他の色々なものに置き換えて「器はいいけど、中身は・・・」などと一種のセルフパロディに仕立ててよくネタにしていた。この他麦茶や紙おむつのテレビCMに出演。
二ツ目時代に身の回りに不運が続いたため、信心が足りないと母に言われて谷中の寺に守り本尊としている虚空蔵菩薩へのお参りに出向いたところ、その寺の住職に、虚空蔵菩薩の使いは鰻であるので、菩薩の命日である13日は断ちするよう勧められた。しかし、13日だけなんて勝手な話は無いと、以来40年以上に渡り大好物であった鰻を断った。1994年テレビ朝日徹子の部屋」出演時に「始めは我慢するのが大変だったが、食べたいと思わなくなった」と語っていたが、晩年「ニュースステーション」に出演の際には(「最後の晩餐」コーナー)、「鰻を死ぬほど食べてみたい」と語っている。癌による死を前に、食べたいものを聞かれたときも「鰻が食べたい」と語ったという。
晩年、時間がないときなどは決まって漫談「山田吾一」を高座にかけていた。自分が俳優山田吾一と間違えられるサゲのこの演目はいわゆる自虐ネタであるが、志ん朝が最後に演じた演目でもあった。
所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望を集めたが、後述する落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間副会長職を務めるに留まった。
父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。肝臓癌のため、家族、弟子に見守られる中、自宅にて逝去。享年63。大切にしていたドイツ語の辞書は棺に納められた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「古今亭志ん朝」の詳細全文を読む




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